5、インジゴの夜に-2

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5、インジゴの夜に-2

 松山が、同じく田端の差し入れたコーヒーを飲んで言った。 「いやあ、それにしても。いるんだなあ、そういう奴」 「そういう奴って?」田端が松山の顔を見上げた。 「いや。谷口のこと『シュミじゃない』って言ったんだろ、そいつ」 「うん」 「確かにアレだよな。男が好きな奴からすれば、お前みたいのは男っぽくなくて、好みではないんだろうな」  「え……」  郁也は暗い顔をした。 「あ、いや。ひとそれぞれ。ひとそれぞれだから。そういう奴もいるってこと。だがそいつがお前に失礼なことを言っていい、ってことにはならないから。それはそれ。これはこれ。な?」  松山は妙に慌てて弁解した。 「……うん」  郁也は自分が何故こうもショックを受けているか、分かり掛けて来た。  烏飼がゲイなら、その彼が食指を伸ばした郁也、それも男だ。  男のコばかりの中で、ただひとり「女のコ」扱いされて大事にされるのとは違って。  郁也はもはや男のコとして選ばれたり選ばれなかったりする存在だ。郁也はもう「男」なのだ。  佑輔が側にいてくれる限り、自分が男でも女でも大して変わりはないと郁也には思える。  しかし、社会的に自分の存在が明確に「男性」として規定されてしまうと。  郁也の中の女のコには、それはとてもショックなことだったのだ。  だが、それはいつかは乗り越えなければならない壁である。遅かれ早かれ、この壁は郁也の前に現れることになっていた。  ただ現実にそれにぶち当たってしまったことが。  それが郁也の中の女のコには、ちょっとばかり痛かった。  松山と田端に連れられて、郁也は街を少し歩いた。観光客の集まる歩行者天国の商店街を三人で冷やかした。  この街にやって来てからは佑輔との暮らしに掛かり切りで、郁也はこうして街で遊んだこともなかった。郁也が面白かったのは、店々の看板に外国語表記が並んでいたことだった。 「英語、ハングル、中国語……」 「ほら、あっちの店にはロシア語も書いてあるよ」 「中国語もふた通りだぞ。簡体字と繁体字だ」  松山は「大陸と半島や島では、使ってる文字が違うからな」と説明した。 「へえ、松山君詳しいね」と田端が言った。  松山はこほんと咳をして、「ウチの家業も、最近そっち方面力入れてるからな」と答えた。田端は「松山君家って、何してるの」と尋ねる。 「ああ。胡散臭いよ。信用調査会社とコンサルタント会社の合いのコのような、何というか。正直俺にもよく分からん」 「いずれ君が跡を継ぐのかい」 「いやあ。俺の夢はハリウッドから注文の来るプラスチック屋だからなあ」 「はあ」  田端は目を点にして黙った。確かにそれだけでは理解不能だ。郁也は笑った。 「やっと笑ったね」  田端は郁也を振り向いてそう言った。自然に分かれた前髪がサラサラ揺れた。 「田端君……」 「田端ん家は、何やってんだ」 「何もやってないよ。ウチの親はただの勤め人。最近景気悪いから大変らしいよ。ボーナスが下がったり給料が下がったり」  株主総会で父の給料はあっさり下げられるんだ。と田端は肩をすくめた。それって勤め人とは言わないと思う。と郁也は言葉には出さなかった。  かつて橋本が連呼したように、自分たちは所詮お坊ちゃまだ。  苦労知らずのお坊ちゃま。吹けば飛ぶような頼りなさだ。 「……はあ」  郁也は部屋の扉を閉めて大きく息を吐いた。  手には今使った鍵が揺れる。キーホルダーには実家の鍵と、エンジンの模型が下がっている。ちょっと普通でない推進エンジン。スペースシャトルのエンジンだそうだ。  郁也はそれを目の前に持ち上げて、左右に数度揺らして見た。淳子が去年、アメリカの父の許を訪れたときの土産だ。去年の夏の初め、淳子は同じ物をふたつ買って来た。ひとつは郁也に。もうひとつは佑輔に。 (おそろいよ)  そう言って淳子は明るく笑っていた。  淳子はそのときひとつの企みをしていた。  前年「事故」を起こした郁也をひとり残して行くのが心配だと言って、自分の留守の一週間、淳子は佑輔に留守番を頼んで行った。「ベビーシッターのバイト」だと思ってくれ、そう佑輔に言い残して。  一週間、ふたりで過ごせば。同じ家から学院へ通い、同じ家に戻って来れば。  母は佑輔が郁也との生活を忘れられなくなると踏んだのだ。  帰って来た母は、(一緒に暮らそうくらい言われた?)と大きな目をくりっと回して郁也に尋ねた。郁也は真っ赤になった。大学に入ったら一緒に住もう。確かにそう言われていたからだ。 (ありがとう、お母さん)   郁也が揺らすキーホルダー。佑輔もこの部屋の鍵を同じものに付けている。  郁也はそれをぎゅっと手の中に握って、胸に当てた。カトリック教徒のロザリオのように、郁也はそれを握り締めた。  松山と田端に、今日のことはくれぐれも佑輔には内緒にして置いてくれるようにと郁也は頼んだ。 「どうしてだよ。またその野郎がお前に変なちょっかいを出して来ないとも限らんのだぞ。そんな悠長なこと言ってられるかよ」  松山はそう言ったが、郁也は押し切った。 「あんなこと初めてでちょっと動揺しちゃったけど、考えて見たら別に大したことされた訳じゃないし。もう大丈夫。君たちには付き合わせちゃって、悪かったね」 「俺たちなら全然平気だけど……」と田端は口を濁した。 「次何か言われても、もう今日みたいに取り乱さないと思う」  触られたら殴り返してやるよ、と郁也はガッツポーズをした。  田端の手前、大したことないことで取り乱したのが恥ずかしいから黙っててくれ、という形にして置こうと思った。その辺を松山は分かってくれたようで、もう何も言わずにいてくれた。 「分かったよ。あいつには内緒な」 「うん。それから、かおりちゃんにもね」 「はは。そうだな」  そうして郁也はふたりと別れて帰って来た。  郁也は時計を見た。佑輔が帰って来るまで後三時間とちょっと。このくらいなら耐えられる。佑輔の美味しそうに食べる顔を思い浮かべて、食事の支度をゆっくりすれば。  郁也は台所に立ち、手を洗った。  やがて、部屋の鍵ががちゃがちゃ鳴った。郁也は飛び上がって戸口へ急いだ。 「お帰り」 「ああ、ただいま」  郁也は上がり框に腰を下ろして靴を脱ぐ、佑輔の背中に頬を寄せた。 「どうした、郁」  佑輔は頸に回された郁也の腕をとんとん叩く。郁也が何も言わずにいると、振り返って郁也の肩を掴んだ。その温度と力強さに、郁也の胸は踏みしめる雪道のような音を立てる。 「何かあったのか」  佑輔は郁也の顔を鋭く覗き込んだ。郁也の大好きな焦茶の瞳は、怖いほど真剣な光を帯びていた。 「別に、何も」  郁也は嘘を吐いた。  かくんと深く項垂れて、郁也は佑輔の肩に額を付けた。 「……淋しかっただけ」  英語のmissって動詞の意味が分かっちゃった。郁也がそう言って笑うと、佑輔は「ごめん」と短く言って郁也をぎゅっと抱き締めた。
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