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5、インジゴの夜に-3
翌日、郁也は烏飼と顔を合わせたが、向こうが何か言って来る前にすっと橋本の蔭に隠れて難を逃れた。急に自分の背中に回った郁也に対して、橋本は怪訝そうな顔をした。
「郁也くん、どうしたの」
「かおりちゃん、髪切って上げるって、まほちゃんに言われてなかった?」
「言われた」
「そろそろ、そうして貰ったら」
郁也は橋本の襟足の髪をひと摘みした。
「あ、やだ。伸びてる?」
「少しね。伸ばすんでも、バランス整えて置くといいよ。まほちゃん、そういうの得意だから」
烏飼は郁也ににっと微笑みかけて席に着いた。郁也は落ち着かなかった。佑輔と一緒の講義でなくてよかった。
見慣れない顔が郁也に馴れ馴れしくするのを見たら、佑輔なら何かあったのを気付くだろう。郁也は自分と佑輔が取る講義の中に、烏飼の顔を見掛けたものがあっただろうかと考えた。
こういうとき、そうしたことに興味なく、記憶に残っていない自分の性質が恨めしい。そんなことを考えながらも、郁也は口では橋本との会話を何事もなく続けていた。
「次の土曜日とか、どう?」
「え。本当にいいの」
「勿論だよ。そう言ったじゃない」
橋本は、小首を傾げて笑顔を向ける郁也に、恐る恐る「じゃあ、お願いします」と頭を下げた。
次の時間同じ講義を取る佑輔と廊下で合流した。烏飼はそれを愉快そうに横目で見ていた。郁也は故意とそれに気付かぬ振りをした。
佑輔に歩み寄り、普段通り隣に掛けた。普通の友人、松山や田端にするのと同じ行動だ。不審に思われる点はない。
烏飼も同じ講義室の、後方の席に陣取った。自分と佑輔を九十分間観察するのだと思うと、郁也は首筋がちりちりするのを感じた。
(別にボクのこと好きじゃないなら、放っといてくれたらいいのに)
興味本位な下心だなどと、失礼にも程がある。思い出すとむかっ腹が立って来た。
シャーペンをぐっと握り締めて郁也は唇を噛んだ。
あんな奴のあんな行動に、あんなに動揺した自分にも腹が立った。別に佑輔が気付いたって、それで揉め事を起こしたって、それは烏飼の自業自得だ。郁也がはらはらして遣ることではない。
それで多少ここでの居心地が悪くなったところで、一生ここにいるでなし。
ここまで考えが及んだところで、改めて郁也は(怖い)と震えた。
自分のような人間を、世間が嫌うのは知っている。理屈抜きで気味悪がられることを覚えている。
上手に隠すことを訓練した郁也にとって、その嫌悪の渦へまた引き込まれるのは大きな恐怖だった。
だが、烏飼はどうだろう。
彼はそうした恐怖に足がすくむことは、ないのだろうか。
郁也の綱渡りには、佑輔という強固な命綱がある。
では、烏飼には?
彼には何かあるのだろうか。
烏飼が変な目で郁也を見ることにいつか飽きたら、訊いて見たいような気がした。
ひとはどうやって生きているのだろう。
「かおりちゃーん、こっちこっち」
郁也は大きく手を振った。橋本が気付いてせっせとこちらへ駆けて来る。
「ごめんなさい。待った?」
「ううん。全然。あたしたち先に来てちょっと買い物してただけ」
真志穂が真新しいペーパーバッグを持ち上げて見せる。
「ちょっとばかし散財しちゃったよね」
「ね」
真志穂と郁也は顔を見合わせた。
三人は真志穂の部屋へ歩き始めた。
「そうだ、かおりちゃん、服のサイズは?」との真志穂の質問に、橋本が号数を答える。
「でもあたし肩の辺りに筋肉付いてて、ワンサイズ大きいのを詰めて貰ったりするんです」
「ああ、メーカーやデザインによってはフィット感変わるもんね」
「ふーん。そうなんだ」
「はは、いくちゃんは理想的なモデル体型だもんね」
「そうなの? よく分かんない」
郁也がこれまで着た服は、自分の男のコ服以外は全て真志穂が用意したものだった。
外へ出られなかった真志穂は通信販売で次々と様々なテーマの衣装を仕入れ、好きにミシンを踏んであちこち調整して郁也に着せた。郁也は真志穂とサイズが同じだったので、表向き自分の服を郁也に着せるという感じだった。
だが、郁也の見たところ、自分が着せて貰った後、かなりの枚数がそのまま放置されている。あえてそれを指摘はしないが、郁也は不思議に思っていた。
そしてそれらの服を真志穂は、高校時代過ごした街で真梨恵と借りていた部屋を引き払ったとき、処分せず、広い実家に送りもせず、この街で新たに借りたマンションに全て持ち込んだらしいのだ。
そのため、専門学校生が借りるのにワンルームでは足りず、真志穂はふたり暮らしの郁也のところと似たような間取りの部屋に住んでいる。しかも繁華街から歩ける距離に。
「ええっ、真志穂さん、こんなところに住んでるんですか」
真志穂が何の躊躇いもなく大理石を模したエントランスを進んで行くのを、橋本が驚いて叫んだ。
「ははは。まほちゃん家、お金持ちだからね」
「そう。本当はいくちゃんにも行く筈だったお金だから。とっとと使っちゃおうと思ってる、あのババアの金なんざ」
そう言って真志穂は思いっ切り顔をしかめた。
部屋の中はこざっぱりして、無駄なものもなくスッキリしている。四角い部屋の一角に、ライトとミラーと道具の詰まったワゴンが一台置かれていた。
「わあ……、本格的」
橋本が目を丸くしている。郁也もここへ入るのはまだ数度なので若干もの珍しいが、真志穂が台所で湯を沸かす音がしたので、そっと行って引き継いだ。お客さまのお相手して、と無言で真志穂の肩を押した。
「素敵なお住まいですね」
「そう?」
「あはは。矢口君とこはもっと凄いらしいよ。ボク行ったことないけど」と郁也は台所から声を張り上げた。
松山がそう言っていた。「生半可じゃねえよ。夜景がキレイでさあ、女のコなんかころっと参っちまうぜ、ありゃあ」との評を先日聞いた。
「最近高いマンション売れ残って困ってるみたいだから、不良在庫のひとつなんじゃないの」と真志穂が言うので、郁也も「あは。違いない」と笑った。
話の見えない橋本がきょとんとしたので、郁也は笑いながら説明した。
「矢口君こそ、君の言う通り、正真正銘のお坊ちゃまだよ。建設会社の御曹司で、お父上は近々政界入りするって噂されてる。玉の輿狙うんなら彼以上のターゲットはないよ」
「いくちゃん、それって勧めてるの」
真志穂が橋本の肩に両手を掛けた。
「駄目だよ。こんな可愛いお嬢さんに。あんなホスト」
「だからだよ。彼がいつも遊んでるギャルとも、親に言い含められて彼を狙うお嬢様とも違う、こういうバランスの取れたタイプ、珍しくていいと思うんだよね」
ホントは、悪いコじゃないんだよ、矢口君て。郁也は小さくそう付け足してお茶のセットを運んだ。「ふーん、そんなもんかねえ」と真志穂はカップに口を付けた。
橋本は下を向いて何も言わず、真志穂のメイク道具を手に取り眺めていた。
「……真志穂さん、これって何に使うものですか」
「まあ、このコは。ビューラーも知らないのかい」
「あはは。だからほら、まほちゃん。さっさとそのコを、お姫さまにして上げてよ。きっと本人が一番びっくりするからさ」
顔の周りの髪をダッカ―ルで止める。襟にタオルを掛けて服が汚れないようにする。コットンにローションをたっぷり含ませて、橋本の若い素肌を整える。
「キレイな肌だね。バドミントンやってたって言ったっけ」
「はい。高校三年間。今もサークルに入ってます」
「外の陽射しに当たってないからかね。肌理細かくてつやつやだ」
真志穂が落ち着いた声で橋本に声を掛けながら、手順を進めて行く。郁也は真志穂の隣で、真志穂が次に使う道具を手渡す。息の合った動きであった。
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