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5、インジゴの夜に-4
「好きな女優さんとか、憧れるタイプとか、ある?」
「さあ、ここしばらく受験準備でテレビも見てなかったから。あ、でも、昔からスキなのは、ヘプバーン」
「キャサリン? それともオードリー?」
「あ、オードリーです」
「どの作品の彼女が好き?」
「そうだなあ。全部いいけど、強いて言うなら、『暗くなるまで待って』かなあ」
「へえ? じゃあ、彼女の美しさがポイントなんじゃ、ないんだね」
「ああ、まあ、そうです。彼女の芯の強い、心が綺麗だな、と思わせるようなところですかねえ、あたしが魅かれるのって」
郁也はふたりの会話を聞くともなしに聞いていた。
「暗くなるまで待って」とは、中年に差し掛かった年齢のヘプバーンが、盲目の女性を体当たりで演じたサスペンス映画である。
女優としての彼女の魅力を訊ねて、万人を虜にした若かりし頃の愛らしい彼女を挙げないひとがいるとは。真志穂は別に映画の好みを訊ねたのではない。
会話の端々から、真志穂が橋本のイメージする女性像を探る。その間にも、郁也に「あ、それじゃなくて、うん、その幅の広い方」「うーん、そうだな、そのリキッドの黒。それ」などと指示を出し、郁也も的確にそれに応えた。
その様子を、橋本は何の違和感も感じていないようだ。郁也がメイクの道具や手順に精通している男のコだと既に理解しているか、化粧のことなど考えたこともないかのどちらかだ。後者であろう。
「はい、出来た」
真志穂は橋本の肩からタオルを外した。郁也が姿見をからからと橋本の前に引いて来る。
「え……」
橋本は絶句した。
大きな二重。穏やかな意志を感じさせる眉。理知的な唇。引き締まった、それでいて優しげな頬。
鏡の中には、橋本がこれまで見たこともない、きりっとした美人がいた。
「うそ……。こんな風になるなんて」
「ね? 言った通りでしょう」
郁也は髪からダッカ―ルを外しながら橋本に微笑んだ。
「郁也くん。こんなになるって、思わなかったあたし」
「さ。かおりちゃん。次はこっちの部屋にね。髪は服を着てからにするから」
真志穂はそう言って橋本を奥の部屋へ連れて行った。郁也は真志穂の使った道具を片付け、お茶を淹れ直す支度をしてふたりが出て来るのを待った。
「いくちゃん、これ、どうお」
真志穂の明るい声がした。郁也が振り返ると、五十年代風の円形スカートに大きなリボンを結んだ橋本が立っていた。
「和製ヘプバーンにはちと遠いけど。いいんじゃない」
「遠いかなあ。結構いい線行ったと思うんだけど」
郁也と真志穂の間で、橋本が頬を紅潮させていた。
さっきの椅子に再び橋本を座らせ、今度は丈の長いケープを着せる。足許には既に郁也によって新聞紙が敷かれていた。真志穂がちゃきちゃきとリズミカルに鋏を動かして、橋本の髪を整えて行く。
上の方に重さを残して襟足を軽く。最後に残したトップの髪を整髪料で更に膨らませて、完成だ。
「ほうら。本日のお姫さまだよ」
郁也は橋本に鏡を向けた。
郁也の視線を気にしながら、橋本は右を向いたり左を向いたりして、別人の自分を確かめた。
信じられなくて、嬉しくて。その気持ちを痛い程知っている郁也は、好きなだけ橋本をそうして置いた。
少女が子供の殻を脱げないでいるとき。きっとそこには照れ臭い、恥ずかしい気持ちと、どうしてよいか分からず途方に暮れる当惑とがあると思う。
橋本は今日、その殻から救い出された。キレイな季節に生まれ変わった、誕生の瞬間だ。
郁也が羨ましそうに橋本を眺めていると、真志穂が「さ、次はいくちゃんだよ」とタオルを手に郁也を呼んだ。
「ええ。いいよお」
郁也は尻込みした。橋本の前でそんなこと。そう思いながらも、郁也の胸はどきっと弾んだ。
真志穂も心得たもので、強制するように「いいからいらっしゃい」と尊大に手招きした。「ええー?」と郁也は橋本に(困ったな)という目を向けて、渋々真志穂の前の椅子に腰掛けた。
「かおりちゃん絶対笑うよぉ。恥ずかしいな」
「笑わない! 笑わないよ。だから、安心してよ。真志穂さんの手に掛かったら、郁也くんがどんな風になるのか、あたし、見てみたい!」
「このひとは男性メイクはしないんだよ、言っとくけど」
「分かってるって」
橋本は無邪気に笑っている。郁也は覚悟を決めた。
「……ほら、出来たよ、いくちゃん」
真志穂が優しく郁也に声を掛けた。郁也はマスカラが下瞼に移らないように注意しながら目を閉じて、ひと呼吸置いて目を空けた。鏡に映ったその姿は。
「キレイだよ。いくちゃん」
「まほちゃん……」
先日真志穂と買ったブラウス。二枚の内のシンプルな白を、今日郁也は身に付けて来た。比翼の襟は僅かに開いて、郁也の鎖骨を際立たせていた。その細い頸から、視線を上げて。郁也は真志穂の魔法を見た。
乳白色の潤んだ皮膚に、澄んだ瞳が輝いていた。頬はふっくら丸みを帯びて、優しいカーブを描いている。唇はぷるんと艶めいて、見るものの心をどきっとさせる。
郁也は何も言えず黙っていた。瞳が潤む。
「……ボク、もう、十八なんだ」
「うん」
「骨の位置がね、変わって来てるの。自分で、分かるんだ」
「うん。そうだね」
「それから、顎がね。こう、頸に繋がるラインが」
「いくちゃん……」
もう、言葉にならない。
郁也は唇を噛み、涙をこらえた。
「いくちゃん、まだまだ、キレイだよ。よく見れば変化はあるかも知れないけど、それはそれ。今のいくちゃんを可愛いお姫さまにするメイクをすれば、こんなにキレイになるんだから」
大丈夫。まだまだイケるよ。真志穂は小声でそう言って郁也にウインクした。
郁也は数回瞬きをして、ようやく橋本に視線を向けた。
「かおりちゃん、どお? あはは、笑うでしょ」
橋本は咽をごくりと鳴らした。
「郁也くん。どうしてそんなにキレイなの」
「かおりちゃん」
橋本は両目を大きく見開いて郁也を見つめる。郁也は怖くなった。何とかこの場を凌がなければ。
「あはははは。そんなに褒めても何も出ないよ。ああ、このひとからは何か出るかもね。実際、凄い腕でしょう、まほちゃんは」
この仕上がりは素材のせいではなく、真志穂の技術によるもの。郁也は橋本にそう印象付けようとした。
「ううん。郁也くん。あなたがこんなにキレイなひとだなんて、あたし今までちっとも気付かなかった」
「かおりちゃん……」
郁也は椅子から立ち上がった。
「かおりちゃん、ボクって、変だと思うかい?」
「郁也くん」
「こういう姿のボクを見て、気持ち悪いと感じる?」
橋本は首をぶるんと振って郁也を見上げた。
「ううん。あたし、そんなこと」
「そう。よかった……」
郁也は橋本の顔を覗き込んだまま、ほっとして思わず笑みを漏らした。たったひとり出来た女のコの友達を、こんなに早く失いたくなかった。
「さ、いくちゃんも、おいで」
真志穂は郁也も着替えさせた。さっき買って来たばかりのワンピース。ミッドナイトブルーに銀ラメのソフトな生地が身体にぴったりフィットして、肩紐のところには羽飾り。デコルテにはダイヤのようなスパンコールがびっしり並んでいた。
仕上げに髪をふわっと立ち上げて。
「お姫さまっていうより、魔女だね」
郁也は笑った。
「『白夜の国のお姫さま』だよ。夜の女王になるための修行中ってとこ」
「あはは」
真志穂の発想はいつも面白い。アーティストの才能があるひとって、やっぱり違う、と郁也は思う。
「せっかくこんなにキレイにしたのに、このまま脱いで『はい、終わり』てのも詰まんないよね」と真志穂。
「そうですよね。どこか遊びに行きますか」と橋本がそれを受ける。
いつかどこかであったような展開。真志穂の処に誰かを連れてくるといつもこうだ。
郁也もついわくわくしてしまった。この都会の夜を、この姿で歩く。何て素敵。
「あ、でも、ボク……」
郁也は残念そうに目を伏せた。佑輔がバイトから帰って来る。郁也のために、今日も朝から汗に塗れて働いていた佑輔が。
「いーじゃん。この間の矢口君の店に、みんな呼んじゃおう。どーせみんなヒマなんでしょう。今から呼べば集まるよ」
真志穂が明るくそう言った。大きく頷いた橋本が松山と田端にメールを打つ。
真志穂が郁也にだけ聞こえるように、「佑くんにも、見せたげよ。今日のいくちゃん」と言った。郁也は「うん」と頷いた。涙がひとつぶ、頬を伝った。
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