5、インジゴの夜に-6

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5、インジゴの夜に-6

 次の日、日曜日は佑輔は「玉ねぎ」も休んで、一日郁也と一緒にいてくれた。月曜日、郁也が「淋しかった」と言ったのが、佑輔の胸にこたえたのかも知れない。  疲れているのか珍しく、佑輔は九時過ぎまで起きなかった。  郁也はひと足先に起きて、佑輔のために朝食を用意した。学校のある日はあまり色々出来ないので、その分うきうきと台所に向かっていると、郁也のケータイが鳴り出した。 (何だろう、こんなに早く)   訝しく思いながらケータイを開くと、登録にない番号だった。 「はい、もしもし」 (あ、谷口郁也さんですか。わたくし祥学舎の有田と申しますが) 「あ、お世話になっております」  郁也が昨日受けた予備校の採用担当者だ。 (昨日はありがとうございました。実は谷口さんの採用を決定させて頂きましたので……) 「本当ですか」  良かった。これで少しお金が稼げる。佑輔にばかり苦労を掛けずに済む。  祥学舎の有田は、担当のコマを打ち合わせたいので、今日午後から来られるかと郁也に訊いた。 「今日、ですか」  郁也は時計に目を走らせた。せっかく佑輔が休みにしてくれたのに。まあ午後にちょっと顔を出すくらいなら。 「はい、伺います。はい。……はい。ええ。……分かりました。では、今日の午後三時に」  失礼します、と郁也は丁寧にケータイを切った。 「ふふっ」  これで「谷口先生」だ。  M町の家庭教師先と合わせて、頑張ろうと郁也は思った。 (頑張ろう。家教もようやく今週からスタートだ)  電話で話しただけだったが、お母さんも本人も、真面目そうでいい雰囲気だった。  休日なので郁也はパジャマのまま、その上にエプロンを着けて台所に立っていた。消したままのテレビに映った自分の姿に、郁也は思わず苦笑した。ひどい格好だ。  佑輔の起き出す前に着替えようかと思ったが、寝ている彼の枕許で物音を立てるのは気が引けた。ま、いっか、と郁也はそのままの格好で新聞を拡げた。  家庭教師は一時間二千五百円、一回二時間で月平均八回、計四万円。予備校も佑輔がバイトでいない土日を中心に入れたいので、大きな額にはならなかろう。だが、これでPCを繋げる。プロバイダと契約出来る。  初めからネットの回線を引いてしまうと、きっと佑輔はそれを光熱水費に含んだろう。郁也は自分の収入からその経費を負担することを固持する積りである。  ふたりの食費も、昼はなるべく学食を使うし大した額にはならない筈だ。せいぜい月に四万だろうか。佑輔は沢山食べるので少し出るかも知れない。  新聞やコーヒーは郁也の個人経費としている。家賃は淳子の負担だし、そんなに金が要るとは思えない。  佑輔のバイト代も「玉ねぎ」は一回一万五百円、月四回行くだけで四万になる。運送会社は一度に五時間、肉体労働で時給千円を切ることはないと思うがどうだろう。一回五千円として月八回で四万円。  佑輔は「授業料は奨学金で賄える」と言っていたが、実際それでは足りないのかも知れない。そうでなければ、何か郁也の気付いていない出費があるか。  今まで親の金でのほほんと暮らし、いざこうなったときに、どこにどう気を配ってよいか分からない。  情けない。自分がこんなに不甲斐ないから、佑輔がひとりで苦労を背負い込むのだろうか。  郁也は再び時計を見た。普段朝寝をしないひとが余り寝過ごすと調子を崩すかも。郁也はそっと寝室の扉を開けた。 「おう。郁。どした」  佑輔は既に目覚めて、布団の中で腹這いになって何かメモしていたようだ。 「ううん。どうしたかな、と思って」 「はは」  佑輔は笑ってメモをしまった。 「……また、随分可愛い格好してるな、郁」  あ、やっぱり。 「そっちこそ、随分セクシーな格好じゃない?」 「そりゃ、昨夜のままだもん」  佑輔は跳ね起きた。 「どうして郁って、いっつもいっつもそう可愛いんだろうなあ。こっちが不思議に思うくらいだ」  そう言って佑輔はばっさばっさと衣服を身に付ける。郁也は目を逸らした。 「ご飯出来てるよ」 「サンキュー」  そしてまた、佑輔は早いペースで飯を食う。 「さっき、電話来てたな」 「うん。昨日受けた予備校の面接、結果来たの。採用だって」  佑輔は一瞬箸を止め、郁也を見た。 「ふーん」  佑輔はまた食べ始めた。 「今日の三時に来てくれって」  折角佑輔クンお休みにしてくれたのに、と郁也は残念そうに呟いた。  食後郁也が足の爪を切っていると、佑輔が食器を片付け終わってやって来た。 「お。爪切ってるのか」  佑輔は何を思ったか、郁也の足許に屈み込んだ。 「どれ。貸して見ろ」  「え。やだ」 「いいから」  佑輔は郁也の手から爪切りを取り上げ、郁也の足を掴んだ。 「やだって」 「じっとしてろよ」  そうして佑輔は、丁寧に郁也の爪を切り始めた。巾の狭いほっそりした足。郁也の骨格は例えば佑輔と比べるとかなり華奢だ。  郁也を傷付けないようにそうっとそうっと、佑輔は爪切りに力を入れる。パチン、パチンと微かな音がした。  静かな休日の午前。通りを走る車も少なく、子供の声もしない。窓の外では高い位置から太陽が世界を照らしている。天気がいい。今日は気温も上がるだろう。  十本目を切り終えて、佑輔は身体を起こす前に郁也の足の甲に唇を触れた。 (あ)思わず郁也は目を瞑った。佑輔は郁也の足を持ち上げ、下に敷いた新聞紙を片付ける。 「じゃあ、次はボク。佑輔クンの爪、切って上げる」 「俺昨日切ったばかり」 「ええー。ずるいよそんなの」  郁也は駄々を捏ねた。「いっつもボクばっかりなんだから」と頬を膨らませる。 「そんなガキみたいなこと言って。昨夜の女王さまはどこへ行ったんだ」  佑輔は郁也をそう揶揄った。郁也は下を向いた。 「郁?」  佑輔は郁也の頭に手を置いて、くしゃっと髪に指を入れた。 「郁、今日は外に出て見ようか。買い物リスト、まだ残ってるもんな」 「佑輔クン」 「予備校、三時だろ。昼か、夜か、外で食べようか。いつも支度させて悪かったな」  郁也は首を横に振った。 「ううん。全然悪くなんかないよ。でも」 「ん?」 「いいの? 外出るの、嬉しくないんじゃなかったの」  外へ出れば金が掛かる。佑輔が汗水垂らして稼いで来た金が。 「はは。考えて見たら、郁とはこれからずうっと一緒にいられるんだ。籠の鳥みたいに閉じ込めて置かなくってもさ。普通の若い奴らのすること、俺たちあんまりしてないよな」  お金を掛けてどこかへ行ったり、遊んだりすること。十六の夏、ふたりがともに時間を過ごすようになった初めの頃、佑輔は郁也に「俺、遊ぶ金なんてないんだ」と申し訳なさそうに謝った。  佑輔の小学校での成績にすっかり夢を見てしまった彼の両親が、背伸びをして彼を金の掛かる東栄学院に入れて以来、佑輔の家には余裕がなくなった。彼の兄は高卒で就職し、佑輔は友人との付き合いを制限した。  学院での佑輔の友人たちは、裕福な家の子弟として適度に遊んで暮らしていた。彼らの遊びは佑輔には無理でもあり、あまり興味も惹かれなかった。  受験生だったふたりは付き合い始めて一年半、図書館に通い、互いの家を行き来するほか、どこで何をしたということがなかった。  郁也はそれに不満はなかった。大好きな佑輔が側にいてくれる、自分を大切に抱き締めてくれる、それが何より嬉しかった。 「一番肝腎なことはちゃんとしてるよ」  昨夜だって。郁也は真っ赤になった。佑輔をこの身体に受け止める形でセックスをする。郁也に訪れる奇跡のとき。この奇跡を知ったら、ほかの楽しみなど色褪せる。  どこで何をするより、どんな散財をするよりも。  佑輔の前で、羞恥に郁也の体温はぽっと上がった。
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