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6、揺れるジョンブリアンの裾-1
農学部の専門の講義に出る佑輔と別れて、郁也は学食へ向かった。
月曜日の朝。学食で郁也は金曜日のクラス英語の予習を片付ける積りだ。
退屈な水曜の論文読みと違って、金曜のは小説がテキストだった。郁也にとっては思い出深い、キャロルの「不思議の国のアリス」だ。
金曜のクラス英語の講義が始まったとき、挨拶に立った講師がこの時間の題材を明かしたとき、思わず郁也は松山と顔を見合わせてしまった。
「『アリス』か。懐かしいな。あれから、もうじき三年経つんだな」
松山は田端に「こいつの『アリス』覚えてるか」と訊いた。田端は、
「ああ。覚えてるよ。それから二組は一度も君たち一組に勝ててない」
と肩をすくめた。
「まあ、谷口さえいれば負け知らずだよな。こんなキレイなお姫さま、ちょっといないもの」
郁也は気まずい思いで言った。
「クラス対抗の行事は、仮装だけじゃなかったじゃない」
「それでもやっぱり、旗があるのとないのとでは違うよ」
「『旗』ねえ」と松山が頭の後ろで腕を組んだ。
「確かにこいつがいれば、野郎共の士気は上がったわ。ちょっと言葉では表現しにくいけど。そうか。『旗』な」
郁也は学食のテーブルに「アリス」のテキストを拡げ、今週の講義分の下読みを始めようとした。
真志穂の部屋での密かな遊びと違って、「アリス」に扮した郁也は初めてひとの目に触れた。仮装という言い訳に隠れて、郁也の中の女のコが初めて姿をひと前に晒した。
あのときの陶酔と興奮。郁也はそれを忘れない。
頭の上で、腰の後ろで、大きなリボンが揺れる。ふわっと広がったエプロンドレス。その裾を揺らして、白い足が恥ずかしげに前後に動く。
自分の姿にうっとりしていると、クラスの男のコたちも郁也のアリスをうっとりと眺めて。
男のコの視線が郁也の感覚を鋭敏にするというのを、郁也はそのとき初めて知った。
郁也の中の女のコはもう大得意で、はしゃぎ回りたい程だった。いかにもクラスのために嫌々やってます、という不機嫌な態度を維持するために、かなりの集中力が要ったものだ。
あの頃は無邪気だった。
自分の中の女のコを隠すことだけが問題で、「お姫さま」の装いを待ち望んでいることさえひとに知られなければ良かった。
「お姫さま」になった自分が、憧れのひとにどう見られるか。「可愛い」と笑って貰えるか、気味悪がられるか、そのひとの反応を思い悩んだりということがなかった。
広い世界には郁也ひとりしかいなかったからだ。
郁也と、潜在的な敵。
単純な構図だった。
郁也は、ふたりの部屋を訪れた父に、佑輔が語った言葉を思い出した。
(僕は郁也君が好きでした)
佑輔は郁也の「アリス」を覚えていると言っていた。
郁也が自分と周囲という単純な世界の中にいたあの頃、佑輔の世界には、彼の心には既に自分が棲んでいたのだろうか。
エプロンドレスに大きなリボン。その格好の郁也を、離れたところから、眩しく見つめてくれていたのだろうか。
(佑輔クン……)
キャロルのテキストは郁也に学院時代を思い起こさせ、郁也の予習はなかなか捗らない。
「郁也くーん! お早う」
橋本がやって来て郁也の隣の椅子に掛けた。
「かおりちゃん」
郁也は一昨日のことを思い出して照れ臭くなった。
「お早う。面白かったねえ、一昨日は。まさかあんな格好で本当に街に出ちゃうなんて。悪ノリっていうか、ホント、もう最高!」
橋本も鞄から何やら取り出してテーブルに拡げ始めた。
「郁也くん、キレイだったなあ」
橋本は嘆息した。郁也はどきっとした。出来るだけ平静を装って、郁也は辞書を捲った。
「かおりちゃんも、可愛かったよ」
ヘプバーンみたいに、芯が強くて凛として。郁也がそう言うと、橋本はもごもごと何やら呟いたきり椅子の上で固まっていた。その気配に郁也は顔を上げ、橋本を見た。
橋本は首から上を真っ赤にしていた。
「……どうしたの、かおりちゃん」
橋本はぎくしゃくと口を開いた。
「郁也くん、その、ああいう格好慣れてるの?」
郁也は答えに詰まった。何と言ったものか。答えられない郁也に代わり、松山が横から返事をした。
「ああ。こいつの趣味とかとはカンケーなく、俺たちこいつにはさんざんああいう格好させて来たからな」
「松山くん」
「見るか?」
松山はポケットから自分のケータイを取り出して、その中の画像を探し始めた。
「ほれ」
「わあ……」
橋本は松山のケータイを覗き込んで歓声を上げた。郁也もひょいと覗いて見ると、去年の「スリーナイン」の仮装をした郁也が写っていた。相手役の横田とのツーショット、郁也のアップ、全身。
「何で持ってるの」と言う郁也を無視して、松山は数枚の画像を披露した。
「これ……?」
「名高い東栄学院祭のメインイベントたる仮装大会よ。これ見たさにわざわざ遠方からやって来るマニアもいるんだぜ」
何せ歴史があるからよ、と松山はうそぶいた。
田端もやって来て「何見てんの」と訊ねる。橋本は田端にケータイを手渡した。
「あはっ。これ去年のじゃないか。懐かしいな」
田端は橋本に、「谷口がいるばっかりに、俺たちのクラスは三年間一度も勝ったことがないんだ」と悔しそうに笑った。
「ちなみにこのメイクは俺の手によるものだ」
「へえ、そうなんだあ」
「おお。真志穂さんにご教授頂いてな」
ご要望があれば、俺だっていつでも橋本を美少女にして遣るぞ、まあ、真志穂さんには敵わないけど、などと松山は胸を張って、田端に向かって手を出した。田端は名残惜しそうに松山にケータイを返した。
「俺はその前の年の、『白雪姫』の方が好きだったな」
田端は誰にともなく呟いた。
「なあんだあ、そうなんだあ」
橋本は明るく笑った。入学式の日、自分は慣れないカカトのある靴で苦労した。それを郁也が高いヒールで難なく歩くので、ちょっとびっくりしたのだと橋本は言った。
松山が無言で郁也の顔を見た。郁也は首を振った。
「高くない。五センチくらい」
郁也はもうヒールの高いものは履かないことにしている。
だって、余り高いのを履くと、佑輔クンの背に追い付いちゃう。郁也は心の中でそう呟いた。
郁也の答えを聞いた松山は、もうその話題を打ち切って「さ、そろそろ講義室行くか」と皆を促した。二コマ目は専門の講義がある。
移動中、松山は田端に耳打ちした。
「四コマの『経済学入門』、早めに終わるだろ。終わったら速攻出て、『英会話B』の講義室へ行くぞ。こいつが出て来たらすぐ確保。何とか言うS1の野郎がこいつに嫌がらせ出来ないようにガードだ」
田端も「了解」と頷き、郁也を振り返って、
「君もほかの学生に混じって、さっさと廊下へ出て来るんだ。ひとりにならないように気を付けろよ」
と心配そうに言い渡した。
郁也は「うん。分かった」と素直に頷いた。
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