6、揺れるジョンブリアンの裾-4

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6、揺れるジョンブリアンの裾-4

 烏飼とはその後何度も顔を合わせた。  同じ講義を幾つも取っているのだから仕方がない。会えば軽く挨拶程度は郁也もした。  松山も田端も、警戒しつつも黙っていた。郁也が「内緒にして」と頼んだ佑輔が側にいたし、専門に上がればどういう繋がりが出来るか分からない。彼らは郁也が迷惑を被りさえしなければ、何も言うことはない。  烏飼の方も懲りたのか、郁也に近付いては来なかった。変わらず軽薄そうな笑みを浮かべ、数人の知り合い同士と愉快そうに遣り取りしていた。  郁也は烏飼の脅威を忘れた。忘れたことにした。  佑輔が自転車を手に入れてから、ふたりが同じ時間に大学へ向かう日は、佑輔が自転車を押して郁也と並んで歩くときも、後ろの荷台に郁也を乗せて行くときもあった。  郁也の身体はまだまだ軽かった。五分程度のふたり乗りは、佑輔にとって負担にもならない。  余りの幸せに、郁也は油断していたのだと思った。  佑輔の自転車で構内を横断していると、学食の裏手で佑輔の知り合いたちと出会った。農学部だろう。その日は専門の講義があった。 「あ、瀬川くん。お早う」 「聞いたかい。今日の高岡先生の二コマ、休講だって」  先に掲示板をチェックしたひとが、知り合いたちに情報を伝達していたらしい。 「なんだ。なら家で掃除でもしてりゃ良かったな」  佑輔が自転車を止めた。郁也は荷台から降りた。 「あたしたち、その次の時間も講義取ってるから、帰るに帰れないのよ。お茶でもして時間潰そうってことになったんだけど、瀬川君もどう?」  これから四年間協力し合う学部の友人たちは尊重すべきだ。 「じゃ、ボク行くよ」  郁也は静かに自分の講義室へ向かおうとした。 「ああ。じゃ三コマで」三コマは「生物学A」、草壁の講義だ。  郁也は目立たぬように腰の高さで手を振って、佑輔たちから離れた。  快活な佑輔には順調に友人たちが増えている。郁也は少し淋しいものを感じたが、いつまでも子供じゃあるまいし、そういう下らない嫉妬からは卒業しようと深呼吸した。  そのときだった。 「やあ、お早う。カッコいいね、君の彼氏」  郁也は立ち止まった。烏飼だった。  烏飼は得意のにやにや笑いで近づいて来た。馴れ馴れしく郁也の肩に肘を載せて、郁也の耳許に小声で言った。 「怖いお友達のこともあるし、君自身には手、出さないからさ。代わりに彼氏一回貸して」  郁也はその肘を振り払った。無言で烏飼をじっと見て、次の言葉を待った。  何か言うとそこからまた墓穴を掘ってしまいそうな気がして、郁也は何も言えなかった。  「……何だよ。そう怒ることないだろ」  烏飼は不満そうにした。すっかり春の陽気で、寒がりの郁也でさえコートを脱いだのに、烏飼はまだライダージャケットを身体にぴったりまとわせている。まるで制服ででもあるかのようだ。 「普通の男の反応として、今のは怒るところじゃない?」   郁也はやっと口を開いた。烏飼はぷっと噴き出した。 「はは。君ってやっぱり面白いや。君みたいなのと遊び回ったら楽しいだろうな。いや、これは、損得勘定抜きの、単なる俺の感想」  俺、これでも結構知られてるんだぜ、と烏飼は言った。  郁也は講義室へ向かって歩き始めた。  どうせ次はクラス英語だ。S1の烏飼も同じだろう。向かう先が似たような方向なら、歩きながら話を聞いても無視したことにはならない。烏飼の機嫌を損ねるのは煩わしいが、講義に遅れたくもなかった。 「どんなところで遊んでるの」  郁也はお義理でそう尋ねた。矢口のように、半ば自分の経営のような店を中心に、夜の街に住む輩もいる。 「大概『The wings of Death』ってクラブにいる。ひと昔前の言葉で言うと『ゴキゲン』な店さ」 「『死神の翼』? 悪趣味だね」  郁也は眉をひそめた。 「そうそう。君のその英語、それは貴重なんだよな。勿体ない。俺と組めばひと稼ぎ出来るのに」 「英語がどうして関係あるの?」  郁也はつい足を止めていた。 「ビジネスに、色々とな」  烏飼は勿体ぶった身振りをした。 「……俺はビジネスマンさ。扱い品目は『青春』だ。俺は青春を商ってるのさ」 「分からない。それ比喩? 当てこすり?」  郁也は冷たい目で烏飼を見た。興味はないが、烏飼が喋りたいなら、時間まで付き合ってやってもいい。講義の予習はもうやってある。 「青春」と言えば「セックス、ドラッグ、ロックンロール」さ、と烏飼は妙な節を付けて陽気に唄った。 「俺と数人の仲間たちは、街で楽しく遊ぶために、多少の工夫をしている。いざってときに融通を利かせるために、誰かの融通を図ってやったりする。今の時代、みんな多かれ少なかれ淋しいからさ、助け合いが必要なときもあるんだよ」  烏飼が言うには、その店に集まる淋しいひとに、ひとときの青春を提供する用意があるとのことだ。 「店からは完全にフリーだけどね。外人客が溜まって来るんで、そいつらとのビジネスに英語が必要なんだ。勿論日本人も来るよ。女だって来る普通の店だ」  長く街で遊んでいると、それなりの人脈が付いて来る。これこれこんな人材を探している、と言われれば、なるべく心当たりを当たって遣るくらいの付き合いは当然だと。 「俺、最初に君を見たとき、オバサマやお姉さま相手にお茶を飲む店に、君を紹介したいと思ったんだよね。丁度『誰かいないか』って言われててさ。それで手っ取り早く仲良くなろうと思って、君を口説くような真似をしたの。君がそっちの方ってのはピンと来たからね。でも君を街で見掛けたことはなかったから、きっと相手に不自由してるだろうと思って。これでも気を利かせた積りなんだぜ」  郁也は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「あはは、怒るなよ。いや、女相手ってのはさ、男なら誰でも出来るように見えて、これがなかなか難しいんだ。男には好みがあるだろ。女は嫉妬深いからさ。客商売ってのは、客は皆同等に扱わなきゃならないのに、好みが邪魔してそのヘン、きっちり出来ないってよく聞くんだ」  烏飼はわざわざそこを伝聞型にして断った。 「だからさ。もともと女の方じゃなくって、そのキレイな王子さま面が、丁度向いてると思ったんだよ。でも月曜の四コマで君の英語聞いて、そんなまどろっこしいことしなくても、もっとバンバン稼げるな、と気付いたよ」  バンバン稼ぐのは、ボクなの? それとも君なのかい? 郁也は皮肉にそう聞いて見ようとして、止めた。興味を持ったと誤解されたくなかったからだ。  どう聞いてもそれは合法的な商売じゃない。おかしげな労働は真っ平だ。 「ボクがバイトを探したのは、社会勉強のためなんだ。金額はそれに従いて来る程度でいい」  嘘だ。郁也は続けた。 「君の心遣いには感謝するけど、君の期待には応えられそうにないな」  でも、話してくれてありがとう。理由が分かってすっきりしたよ。最後に郁也はそう付け足した。それは確かに本当だった。決して言いやすい話じゃないのに。そう言った郁也に、烏飼は驚いた顔をした。 「本気かい。本気で俺に礼を言おうってのか」 「変かな」 「変だな。君、どこかおかしいんじゃないか」  郁也はくすっと笑った。 「ああ、ボクもう、とっくにおかしいんだ」  じゃね、と郁也は自分の講義室への廊下を曲がった。  おかしいさ。  毎日毎日、幸せ過ぎて、ボクの頭の中はもうとっくにどうにかなってるんだ。  郁也はパタパタと廊下を急いだ。
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