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6、揺れるジョンブリアンの裾-5
「郁也くんの英語って、本当にキレイねえ」
橋本が感に堪えないと言った体で溜息を吐いた。
例によって五人揃っての昼食である。
キャロルの「アリス」を読んで行く講義で、今日は郁也が読みを当てられた。下手をすると講師よりも正しい発音で、郁也はテキストを音読した。
「そお? 父には発音がおかしいって、よく直されたけど」
郁也はそう言ってうどんをすすった。
「お父さん? 谷口のお父さんって、次のコマの草壁先生の学友だって言ってなかったっけ」と田端。
「うん。そう聞いたよ」
「何で英語?」
郁也はアメリカに住む父が母に課したルールについて話した。
「まあ、ボクは母のとばっちりだね」
「いいよなあ。『とばっちり』なんて言ってるけど、今にそれ感謝する日がきっと来るぜ」
と松山が野菜炒めをつつきながら言った。
「松山君、そろそろ学食メシにも飽きてきたんじゃない?」
「まあな」
郁也が見たところ、箸は余り進んでいない。
「松山君は留学希望なのかい」
田端が尋ねる。
「特殊メイクっつったら、先ずはアメリカだからな」
「『特殊メイク』?」
橋本がくりっと目を松山に向けた。
松山が、入学式の下見で郁也と佑輔に語った話を橋本に聞かせた。
「へえ。凄いんだあ」
「凄かねえよ。ま、今の俺の漠然とした希望っつーことで、この先変わるかも知れねーしな」
松山は野菜炒めを行儀悪く箸で掴んで選り分けては置き、選り分けては置きを繰り返す。郁也は眉をひそめた。
「あーあ。行儀悪いなあ。そんなに嫌なら、日に二食も三食もここへ来なければいいじゃない」
「いかな俺でも日に三食は来てないぞ」
松山の隣で田端がくすっと笑った。
「何だよ、田端。お前は自炊してんのかよ」
「ああ。本見たりしてな。やって見ると面白いもんだ」
橋本がその会話を余裕の笑顔で聞いている。橋本は学生下宿で食事付きだ。
「そうだよ、松山くん。今どき男のコだって、炊事のひとつも出来ないとモテないかもよ」
「む」
松山の表情がきりっと締まる。その反応がおかしいと橋本はまた笑って、「郁也くんは?」と向かいを見た。
「まあ、一応ね。ウチの母は何かと忙しいひとだったから、自分で自分のご飯作るのしょっちゅうだったし」
「へえ。いいねえ。得意な料理は何かある?」
「得意、ねえ」
郁也は考えた。
「分からないな。普通のおかずだよ、ボクの作るの。煮物とか、お浸しとかそういうの」
佑輔と住むようになって、カツだとか、唐揚げだとか、そういうハイカロリーな肉料理というか油ものを作るようになった。佑輔はどれも嬉しそうに食べてくれるが、肉体労働もしているし、そういったものをより喜ぶような感じもする。
「いいなあ。家庭の味だねえ」
田端が羨ましそうな顔をした。「だって、そういうのが一番簡単なんだ」と郁也は弁解するように言った。
橋本は最後に「瀬川くんは?」と佑輔に話を振った。
「松山と同じだな」
「瀬川くんも日に何度も学食派?」
「というよりも、これから覚えます派」
生物学の講義が終わった。
郁也は松山に声を掛けた。
「松山君、そんなにマトモなもの食べてないんだったら……」
そこまで言って郁也は佑輔を見た。佑輔は頷いた。
「そうだな。松山。お前にメシを食わせてやる。寄って行け」
「ええ? いいのか?」
新居だろ、と松山は言った。郁也はもじもじと下を向いた。佑輔が笑った。
「バーカ。お前がいなけりゃ、今俺たちはこうしていなかったかも知れない。或る意味、恩人だからな」
途中、スーパーで鍋の材料を買った。松山がペットボトルの茶を買おうとして佑輔に止められていた。
「あ、いいよ。普通に湯を沸かして淹れてる」
「え、そうなのか」
「ああ。こいつ冷たいもの苦手だから。駄目なんだ、そういうの。お前が飲むなら入れてけよ」
「ふーん。いや、別にいいよ」
松山は材料費を自分が払うと言って聞かなかった。場所や手間を提供して貰う自分が持つのが当然だと言うのだ。
「何を水臭い。いいよ」
佑輔も引かない。
松山は遂に折れ、「よし、きっちり割勘にしよう。その代わり、俺半分な。どうせ谷口、大して食わんだろうから」とレシートの金額の半分を郁也の財布にがさっと抛り込んだ。
「ちょっと待っててくれ」と言って松山は消え、五分後に「お待たせ」とまた現れた。
夕陽が眩しく街路を照らしていた。もう随分日が長い。夜はまだしばらく先だった。
「はい、改めて。いらっしゃい」
ひと足先に上がった郁也が、松山を振り返って笑った。佑輔が「古くて狭いだろ」と声を掛けた。松山は「へええ」と見回しながら部屋に入って来た。
「もっと、ピンクとか、花柄とかが溢れてるのかと思った。案外普通だな」
「そりゃそうだよ。どんなのを想像してたのさ」と郁也。
「いや、やっぱりそこはそれ、新婚家庭のイメージというものが」
(し、新婚……)
松山は優しいいいヤツだ。佑輔の隣にいる郁也を、徹底的に女のコとして扱ってくれる。
「佑輔クン、お米お願い」
「おう。松山、お前米くらいは炊くんだろうな」
「え、いや。まあ、そのくらいはな」
「アヤシイな。まあ見てろ」
佑輔が松山に米の研ぎ方を実演して見せている横で、郁也はコーヒーを淹れた。朝の弱い郁也がこれだけは譲れない嗜好品である。
ドリッパーもペーパーも越して来た初日に揃えたが、細口の薬缶だけがまだ手に入れられていない。郁也は普通の薬缶の傾斜角に注意して、可能な限り湯を細い筋状に出すよう心掛けた。
「明るいな。こっち南か」
「ああ。ふた部屋なんだけど、もうひと部屋も南に窓がある」
カップを手に佑輔が松山に説明した。奥の部屋に通じるドアを開け、松山を案内した。
「こっちは南というより、この時間なら西日が凄いけどな」
ふたりの寝室にしている奥の部屋は、夜具は押し入れに片付けられ、来たときには床に転がしていた生活雑貨も今では買って来たアルミの棚に整頓されて、さっぱりし過ぎて淋しい程だ。
実家での佑輔の部屋のようだ、と郁也は笑ったことがある。独立して実家を出た兄の部屋に細々したものは移動して、自分は何もないガランとした部屋に住んでいた佑輔。
この部屋も少々飾りがあってもいい。そのうちふたりの写真でも、引き伸ばして飾ろうかな、と郁也は思っていた。
(一度写真館で、ちゃんと撮って貰おう)
郁也は真志穂に、二年前からそう言われていた。それはまだ実現していない。そうこうしているうちに、郁也はもうあの頃の美しさを失った。
それは飽くまで比較の問題で、この時点でも真志穂の手に掛かれば、橋本を驚愕させる程度には美しくなれるのだが。
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