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1、ネープルスイエローの午後-4
傍らに体温がある。佑輔だ。
カーテン越しの朝日が部屋を少し明るくする。茶色いカーテン。だがいつもの郁也の部屋のカーテンではない。
郁也は目を開けた。
ガランとした部屋に、段ボール箱が幾つか口を開けている。その周りには収納しようのない雑貨類。
「目が覚めた?」
昨日ふたりで引っ越して来た部屋だ。郁也は時計を見た。
「今何時? 佑輔クンとっくに起きてたんじゃない」
郁也と違って、佑輔の寝起きは爽やかだ。
「ああ」
佑輔はくすりと笑った。
「寝顔、見てた」
郁也は「やだ」と呟いて寝具を引き上げた。頬が弛む。身体中に幸せが満ち溢れる。
佑輔の部屋で、初めて素肌を抱き締められたときも、眠り込んだ郁也が目覚めるのを、傍らで佑輔は嬉しそうに覗き込んでいた。あのときも郁也は恥ずかしさに寝具を深く被って、佑輔の目から身体を隠したものだ。郁也はそれを懐かしく思い出す。
あれから、一年半。
(とうとう、ボクらは……)
こんな日が来るなんて、郁也は夢にも思っていなかった。
郁也は佑輔の胸に頬を擦り寄せた。佑輔が郁也の身体に腕を回す。昨夜の感覚が濃密にふたりの身体に残っている。
佑輔は愛おし気に郁也の背を、腰を撫でた。温かい佑輔の手。郁也は瞼を閉じ深い息を吐く。佑輔の手が郁也の腰を下り、丘を越え脚の付け根で止まった。佑輔は指の腹で丘の麓に近い辺りを揺らした。
「郁。こっちも前より感じるようになって来たんじゃない」
佑輔の指が郁也の身体に起こした波は、深いところに眠る郁也のいばら姫を揺り起こしそうになる。郁也は波が過ぎ去るのを待ち、真っ赤になって「分かるの」と小さく尋ねた。
「そりゃ声の感じとか、身体とか。分かるよ」
佑輔はふふふっと笑って郁也を抱き締めた。皮膚を通して佑輔の喜びが伝わって来る。
「何だか、ずるいな」
郁也は呟いた。佑輔は慌てて身体を離す。
「ずるい? ごめん、じゃあ次は替わろうか。郁にだったら俺、いいよ」
「違うよ。そうじゃなくて」
そんなのヘンだよ、と郁也は言った。佑輔が心配そうに郁也の頬に触れた。
「そうじゃなくて。ボクの身体のことなのに、佑輔クンにはみんな分かっちゃうんだなって……」
恥ずかしくて嬉しい。郁也は目を伏せた。
佑輔の腕の中で、郁也は女のコになってゆく。
あれほど怖れて、悩み抜いたのが、嘘のようだ。
どこも改造したりせずに、何の侵襲を受けることもなしに。
奇跡の光を、郁也はその身に享けた。郁也に降り注いだ天使の欠片は、郁也の身体に残っていた怖れ、悲しみ、後ろめたさ、そういったものをひとつひとつ中和し、祝福していった。郁也がこの身体で行うこと全てを祝福してくれた。
男のコであろうと、女のコであろうと、郁也が望むままに、佑輔に望まれるままに、郁也は佑輔を愛することを許される。相手のことを想うこと。それは性別に関わらず聖なる行為だ。
郁也は或るとき、強い光の中でそう気付いた。西日がじりじりと降り注ぐ学院の一室で、その朝佑輔がくれた感覚を思い起こしながら。
(ボクの身体が男のコでも、佑輔クンは愛してくれる)
(「そのままの郁がいい」、そう言ってくれた佑輔クン)
(じゃあ、ボクのこの身体は、佑輔クンの望みを叶えてのもの)
(この身体で、ボクは佑輔クンを受け止める。それは、ボクの幸せ)
(この身体が幸せなんだ)
郁也は涙を流していた。天使の欠片が郁也の中の暗い澱みを押し流し、それらはひとつひとつ涙となって浄化されていくように感じた。奇跡の光が郁也を照らし、世界を反転させていった。
あのときのあの感じ。あれは何だったんだろう。
間違いなくそれは郁也にとって救いだった。
(ボクの身体のこと、佑輔クンにはみんな分かっちゃう)
一昨年、郁也が痩せて痩せて、骨格標本のようになってしまって、その身体が去年少しづつ回復していったとき。
そのときも佑輔はその変化に気付いていた。「太った?」と佑輔は郁也に訊いた。郁也が慌てて身体を隠すと、佑輔も慌てて「太った、というより、回復したって感じだよ」と言い直した。もっと肉が付いていていいくらいだと。
郁也の気付く郁也の変化を、同じように気付いてしまうひとがいる。
もうボクひとりの身体じゃ、ないんだ。
郁也は睫毛を震わせて佑輔の頸を引き寄せた。
「郁……」
佑輔の手が再び郁也の背を伝う。その指はより熱を帯びて郁也の腰を下り、丘の麓を窺った。その刺激に郁也は眉を寄せて身体を反らせた。小さな、しかし鋭い叫びが続く。
郁也の叫びはいつも佑輔の欲望回路をブーストする。佑輔は郁也の頸を、胸を甘く優しく咬みながら、封印の扉を叩いた。
扉はすでにたったひとりの勇者を知っている。彼によってのみその封印は解かれ、重い扉が開かれる。
昨夜誰を気遣う必要もない新しい住まいで褥をともにしたふたりは、思う様その封印の城に遊んだ。子供のように無邪気で、悪魔の業のように強烈で、天使の羽のように優しい行為だった。ふたりは夢中になって求め尽くし、疲れ切って眠りに落ちた。
佑輔の指が扉の向こうのいばら姫の様子を探る。郁也の咽からは切ない声が甘く漏れた。郁也がそれを恥ずかしがる様子が、また佑輔を駆り立てる。我を忘れて封印の扉を押し開きそうになって、はっとして佑輔はその進軍を止めた。
「ご、ごめん、郁。痛くなかった? 立て続けにこんなことしちゃ、郁が壊れちまうよな」
「平気。壊れないよ、佑輔クン……優しいもん」
郁也は佑輔の頸に腕を絡めたまま、顎を引いて佑輔を見た。郁也の身体の深いところ、そこはもう熱く勇者の到来を待ち侘びている。この感覚。これを郁也が知ったのはこの数週間のことだ。
受験が終わり欲望のままの行為を控える理由がなくなって、ふたりは淳子が出勤した後の郁也の部屋で幾度もセックスをした。その中で、少しづつ少しづつ、霞が次第に実体化するように、郁也の身体はそれに反応するようになっていった。
郁也は遂に女のコの快楽に辿り着いてしまったのだ。
「大丈夫。だから」
郁也は唇を開いた。喘ぐような吐息を漏らして郁也は佑輔を見上げる。佑輔は深い茶色の瞳を輝かせて、郁也の言葉を待っている。佑輔の指が扉の周囲を、焦らすようにウロウロする。
「佑輔クン」
か細い声は震えていた。
「何?」
佑輔が震える郁也を覗き込む。茶色の瞳は欲望にきらきら濡れて郁也を魅了する。郁也は唇を噛んだ。
「……意地悪」
「何が」
動悸が伝わって来る。郁也を焦らしている筈の佑輔が焦らされている。
「郁……」
佑輔の指が情熱的に郁也を揺さぶった。郁也はもう我慢出来なくなって佑輔の頸を引き寄せた。
「…………」
佑輔の耳朶に郁也が微かにそれをせがむと、佑輔は弾かれたように荒々しく郁也の身体を組み敷いた。
十八の身体を吹き荒れる欲望は、暴風雨のように凶暴だ。
嵐の中で佑輔は、郁也を傷付けないように、必死に自分を制御しようとする。その試みは成功したり失敗したりして郁也の感覚をより研ぎ澄ます。郁也に溺れ込んでいくような佑輔の姿は、郁也の感覚をより鋭くさせ、満足させた。
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