6、揺れるジョンブリアンの裾-6

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6、揺れるジョンブリアンの裾-6

 キレイに片付けられ、掃除も行き届いた明るい部屋に、落としたコーヒーの香りが満ちる。松山は言った。 「何か、『正しい生活』って感じがするな」 「何それ」  郁也はきょとんとした。 「自分で落としたコーヒー。ペットボトルの飲みものは買わない。明るくこざっぱりとした部屋に住んで。今時そんなきちんとした暮らしをしてるヤツなんて、余程の年寄りでもそういないんじゃないか」 「年寄り……」 「勿体ないな」  松山は大きく溜息を吐いた。 「谷口、お前が本当の女のコなら、勿体なくて瀬川なんぞには絶対やれないところだ」 「ははは。何の権利があってだよ」  佑輔は嬉しそうに笑う。 「それって、ボク、男のコでよかったってこと?」  鍋だけでは物足りなかろうと、郁也はもう一品青菜の胡麻汚しを用意した。酢醤油であっさり食べる鍋との味の対比で考えた副菜だ。  理解してるんだかしてないんだか、返事だけはいい松山に、郁也は全ての手順を簡単に説明しながら作業を進めた。佑輔も郁也の指示で、野菜を洗ったり、材料を冷蔵庫から出し入れしたりして、郁也の説明に耳を傾けていた。 「いただきまーす!」  松山は久し振りの家庭の味に、はふはふ言いながら郁也を見た。 「旨い。谷口、料理上手いな」 「鍋なんて、誰が作ってもこんなもんだよ。ひとり分小さな鍋で煮ると手軽だから、松山君も覚えなよ。洗って切って、煮るだけだったでしょ」  それを聞いて、佑輔が郁也の顔をのぞき込んだ。 「郁。それは出来るヤツの言葉であって、俺たち未経験者にとっては『切る』ってとこからハードル高いの」 「そうなの? じゃあ、早く慣れるといいよ」  松山君もね、と郁也は笑い掛けた。松山は笑っていなかった。 「松山君?」 「……お前が谷口をそう呼ぶの、初めて聴いた」  珍しく佑輔が顔を赤くした。 「そうか? ずっとこうだぞ」  短くそれだけ答え、佑輔は鍋をパクついた。 「何だよ。何か文句でもあるのか」  尚も佑輔を見る松山に、まだ赤い顔をしている佑輔が訊いた。 「……いや。文句なんかないよ。良かったな、谷口」 「え?」  佑輔につられて郁也もちょっと恥ずかしい。 「沢山、沢山そう呼んで貰え」 「……うん」  郁也は小首を傾げて「佑輔クン、優しいよ」と松山に報告した。松山も満足そうに「そうか」と頷いた。佑輔は更に真っ赤になって、いつもより早いペースで箸を動かした。 「折角だから、かおりちゃんや田端君にも声掛ければよかったね」 「駄目だな」  佑輔はにべもない。 「どうして」 「橋本の下宿は食事付きだろう。田端だって自炊してるって言ってたぞ」  俺たち何も出来ないヤツらに、炊事を教えるってのが今日のテーマだ、と佑輔は言った。 「そうだっけ」 「それに、この部屋に五人は狭すぎる」  佑輔は立ち上がって薬缶を火に掛けた。 「狭いかなあ。お相撲さんじゃあるまいし」  郁也が首を傾げてぶつぶつ言うと、松山が揶揄うような目をした。 「瀬川はね、ヤツらをここに入れたくないんだと」 「どうして? 嫌いなの?」 「嫉妬深いんだよ、お前の『佑輔クン』は」 「え?」 「松山、この野郎、余計なことべらべら喋んな」  佑輔が淹れた茶を運ぶ途中で松山を蹴る真似をした。松山も大仰に痛がる振りをして大笑いした。  ピロピロとメロディが聞こえて来た。郁也のケータイだ。 「噂をすれば、だね。かおりちゃんだよ」  そう言って郁也は通話キーを押した。 「あ、かおりちゃん。どうしたの」  橋本は、郁也の明日土曜日の予定を訊いた。どこかのホールで、映画の衣装展をやるらしい。一緒に行かないかと言うのだ。 「土曜日はボク、バイトがあるんだ。……うん、そう。予備校。……うん。うん。……日曜? えーっと……」  郁也は佑輔の顔を見た。日曜は佑輔もバイトを入れずに、一日郁也といてくれる大事な日だ。 「じゃあ俺『玉ねぎ』入れるわ。行って来い」  佑輔は優しく頷いた。郁也は佑輔のその言葉を確かめて、橋本にOKの返事をした。 「うん。いいよ。……え、誰もいないよ。……分かった。じゃ日曜日」  郁也はキーを押した。 「映画の衣装だって。松山君興味ある?」 「衣装かあ。そっちには俺、あんまり」 「そう? じゃあまほちゃんに連絡しとこうっと」  郁也は再びケータイを操作した。 「あ、まほちゃん? あのね……」  テーブルに肘を突いて松山が「やっぱ可愛いな」と呟いた。佑輔はそれを横目でじろっと睨む。 「やらんぞ」 「いや、要らないけど」  首を傾げてケータイと喋る郁也に目を細めている松山。佑輔はムスッとして訊いた。 「お前も誰か見付けるんじゃなかったのか。演劇部はどうした」 「ああ。女子部員も多いんだけどさ。何しろ、俺たちこいつを三年間毎日見てただろ。基準がズレちまってるんだよな」 「人間見た目じゃないぞ」 「そうじゃなく。谷口はさ、顔がキレイなだけじゃないだろ。何と言うか、こう、滲み出る可憐さがあるよな。儚いような、切ないような」  佑輔は松山に向き直った。 「それってお前」 「違う、違うって。誤解すんな」  松山は慌てて手を振った。 「……だからさ、その辺の女のコ見てもなかなかいいと思えなくて」  佑輔はようやくうっすら笑った。 「そうか。お前も大変だな」 「はは。瀬川にそれ言われんの、すっごい腹立つ」  郁也が通話を終えると、松山が自分の買って来た箱を開けた。さっき立ち寄ったスーパーで、松山が消えた五分間で手に入れて来た箱だ。中からはキレイな細工の焼き菓子が出て来た。 「わあ……」  郁也の顔から笑みが溢れる。 「こんなに……いいの?」 「ああ。腹一杯食った後は別腹っしょ」  そう鷹揚に郁也に頷いて見せる松山に、佑輔は「随分気が利くな」とぼそりと言った。 「矢口や大塚と付き合ってると、自然とな」  連中、女のコには目がないから、と松山が苦笑した。 「俺、連中とは別行動が多かったからな」 と佑輔が言った。郁也は幾つもある焼き菓子の、どれを選ぼうか指を迷わせている。 「お前はもう遊ばなくていいだろ。こんな可愛いお姫さまが側にいてくれるんだから」  松山が腕組みをしてたしなめるように佑輔に言った。こんな可愛いお姫さま。佑輔は照れ臭そうに鼻を掻いた。 「松山君って、優しいね」  松山が帰った後、郁也はそう佑輔に言った。 「佑輔クンの友達は、みんなボクにも親切にしてくれる。ありがたいよ」  きっと佑輔クンがみんなを大事にしてるからだ、佑輔クンのお蔭だよね。郁也はそう言って笑った。佑輔はそれには答えず、郁也に尋ねた。 「郁、さっきみたいな甘いもの、好きだったのか」 「え? ああ、うん。それなりに」 「そっか。知らなかったな」  何だか淋しそうな佑輔の肩に、郁也の胸はきゅっと鳴った。 「ボクたち、駆け足で仲良くなって、その後はずっと受験生だったもんね。だからそういう、外堀を埋めていくような、互いの考えや好みを少しづつリサーチしていくような期間、なかったから」  郁也は佑輔の骨張った手を取った。郁也の大好きな、力強い佑輔の手。 「ボクは気が付くともう佑輔クンのことがすっごく好きになってて、そんな悠長なことしてる余裕がなかったよ。でも、ボクはそれがとっても幸せだった」 「うん」  佑輔は郁也の指をぐっと握り返した。温かくって、気持ちよくって、郁也はその感触にぽーっとなる。 「これから、少しづつお互いのことを知って行こう。ボクも佑輔クンのこと、沢山知りたい。それでいいじゃない。ボクたち、これからずうっと、一緒にいられるんでしょ?」  郁也は首を傾げて佑輔の顔を覗き込んだ。佑輔は掴んだ郁也の手を強く引き、倒れ込んだ郁也の身体を受け止めた。郁也は一瞬息を止めたが、佑輔の胸の中にすっぽり収まって、その心地よさに深く息を吐いた。 「郁」  「ん?」 「郁って、凄くキレイだ」 「ええ?」 「さっき松山も言ってたけど、顔がキレイってんじゃなくて……何て言うんだろう。郁の言葉、郁の動き、郁の表情、そんなものがみんな、凄くキレイで」  佑輔は郁也の頬を両手で挟み、その目をじっと見つめた。 「俺には郁が、天使に見えるよ」  郁が俺に笑い掛けてくれる。その笑顔を見たら、何だってやってやるって気持ちになる。何でも出来そうな気がするんだ。 「佑輔クン……」  そしてふたりに甘やかな夜が訪れる。互いのための互いであることを確かめ合い、安らかな眠りに落ちる密やかな夜が。  佑輔クン、ボク、男のコでよかったのかな。  男のコでなかったら、いじめられなくて、東栄学院に入ることもなくて、佑輔クンとも出会わなかったよね。 (そうだよ。前にもそう、言ったろ)  天使には、男も女もないんだから。佑輔はそう郁也の耳許に囁いた。 (佑輔クン……)  温かな佑輔の胸に抱かれて、郁也はゆっくりと瞳を閉じた。
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