7、グラスグリーンに匂う風-1

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7、グラスグリーンに匂う風-1

「あ、かおりちゃん。ボクだよ。練習終わった?」  郁也は橋本に電話を掛けた。講義室で別れた橋本は、今日はサークルの練習だと言っていた。何時に終わるか分からなかったが、取り敢えず郁也はケータイを鳴らして見たのだった。 「ああ、そうなんだ。……うん、これから、遊びに出ないかと思って。……うん。何かヒマで。……そう。別に何でもないけど、矢口君のお店にでも行かない? ……ああ、うん。分かった。じゃS野のスタバ前で。はい」  郁也はもうひとりでこの部屋にはいられなかった。  佑輔はバイトに出掛けた。今日も例の居酒屋の方だ。  付き合いが出来たのか、ここのところ、佑輔はどうやら真っ直ぐ帰って来ていないようだ。厨房担当の筈なのに、よくアルコールの匂いをさせている。十八の学生と言えばもう立派な大人だ。当然のことではないか。  これが万全の体調なら何の心配もないのだ。  だが、ここしばらくの佑輔の様子からすると、郁也には危険なことに思えた。夜遅くの付き合いより、早く帰ってゆっくり身体を休めた方がいいのに。そう強く思う郁也の気遣いに、幾許かの嫉妬が混ざっていることを郁也は知っている。  心配と、嫉妬と、妄想と。  それらに苛まれて、ひとりで部屋にじっとしているのは、拷問に等しい。  郁也は優しい笑顔を取り戻したかった。  疲れて帰って来る佑輔に、屈託のない笑顔で「おかえり」を言いたかった。  淳子の言う通り、千年の恋を、冷めさせないように。  無邪気で明るい橋本に、余計な心配と、下らない嫉妬と、異常な妄想を、吹き飛ばして貰おう。  考えて郁也は、自分の持っている男のコ服の中で、最も派手なものを選んだ。夜遊び仕様だ。  黒革のほっそりしたパンツに、先日買った女物の比翼のブラウス。流星を象ったペンダントをぶら下げて、仕上げにブルーグレーのジャケットを羽織った。メイクはしないが、髪を軽く上げて見た。遊び人風の男のコの出来上がりだ。  橋本はそんな郁也を見て、「カッコいい……」と目を点にした。  矢口の店で、橋本は元気よく幾皿も注文した。バドミントンの練習の後で、橋本の身体は消耗した熱量を補給したがっている。 「突然、御免ね」  郁也はしおらしく謝った。 「ううん。いいのいいの。あたしこそ、待たせて御免。汗だくでさ、シャワーだけは浴びたかったから」  そう言った橋本の髪からはふんわりと爽やかな香りがした。急な誘いだったものの、膝丈のベージュのスカートに白のカットソー、モスグリーンのカーディガンが目新しかった。 「それ、買ったの?」  郁也はそのカーディガンを指差した。 「うん。よく分かったね」 「以前のかおりちゃんなら、持ってなさそうな色合いだから」  すっきりしたV字のそれは、細身の橋本の身体付きを引き立て、却って女のコらしさを強調していた。 「もう。すっかりお見通しなんだなあ、郁也くんには」  橋本はそう言って、嬉しそうにグラスを持ち上げた。  窓からは、この都会の夜景が見渡せた。ところどころ他のビルに遮られつつも、五階にあるこの店の、窓に向けて横並びの席は、開放感があっていい感じだった。橋本が真志穂にメイクされたのもこの辺だった。矢口、松山、田端。みんな気のいい仲間たちだ。 「郁也くんってさあ……」 「ん?」 「……好きなひと、いるの」 「んー」  曖昧に相槌を打って、郁也はこくっと飲みものを飲んだ。否定しようか、肯定しようか。 「かおりちゃんは? この間のサークルの先輩、どうしたの」 「ええ? あのひと? 言ったじゃない。そんな風に思ったことないって」 「あっさり諦めてくれた?」 「分かんない。もし気が変わったら言ってくれって言われたけど」 「へえ。長期戦の構えじゃない。そのひと、結構本気度高いんじゃないの」 「ええ? そうかなあ」  困るなあ、そんなの、と橋本は下を向いた。真志穂が切り揃えたボブカットの毛先が揺れた。 「『思いが通じる』って言葉もあるし。初めは全然その気がなくっても、さり気なくそういう態度を取られてるうちに、いつの間にか応えたい気分になることもあるよ。勿論、もっとかおりちゃんの気に入る素敵なひとが現れることもある。可能性は無限だよね」  いいね、そういうの。郁也はそう言って橋本ににこっと笑い掛けた。  橋本は慌てて皿に取ったピザの欠片を頬張った。 「どうして今あたしに誰もいないってのが前提なのさ。失礼じゃないの?」  郁也はその様子にふふっと笑いを漏らした。 「じゃ、誰かいる訳? とてもそうは見えないけど」  せいぜい高校時代の片思いの相手を、忘れられないってくらいじゃないの?  郁也は小馬鹿にしたようにそう言って、だが目は優しく橋本を見た。  生々しい欲望に(まみ)れる前の、清潔な少女の瞳があった。  郁也は身体のどこかで、何かがちくりと刺すような痛みを感じた。優しい気持ちになれる痛み。  真志穂が郁也の姿を、可愛い女のコに仕立ててくれたとき、彼女の心の中でも、こんな痛みがあったのだろうか。  橋本は唇を尖らせた。 「そんなことないもん。もう忘れたもん」 「ほうらやっぱり。誰かいたんだ」 「別にいたって程じゃ。郁也くんの言う通り、ほんの片思いだもん。そのひと、ちゃんと彼女いたもん」 「ふうん。モテるひとだったんだ。カッコよかったの?」 「今思うとそうでもない。郁也くんの方がずっと素敵」 「へえ、そりゃ光栄だ」 「もう、馬鹿にして」  向こうのビルの屋上で、きらきら光る観覧車が回っていた。  繁華街の真ん中に観光名所にしようと作られた、大人のための観覧車。その光のひとつひとつに、カップルが乗り、様々な物語が詰め込まれている。  郁也は今それを素直に(いいなあ)と思うことが出来た。  あそこで揺れているカップルたちと同じように、自分と佑輔は互いのことを想い合うことが出来る。  過ぎてしまえば他愛もない笑い話になるような不安や不信、嫉妬に揺れながら、日々を手を取り合って過ごして行く恋人たち。郁也と佑輔も、そんな世界の数多のカップルと同じように年を重ねて行くのだ。 (何だ。ボクってこんなに幸せじゃない)   ゆっくりと回転を続ける観覧車は、郁也の目の中でうっすらと滲んだ。 「郁也くん?」  橋本が、黙ったままの郁也に声を掛ける。 「どうしたの」 「ん? 何でもないよ。観覧車がキレイだな、と思って見てた」 「郁也くん、あれに乗って見る?」  橋本が目を輝かせてそう誘った。郁也はぼんやりと「ボク、高所恐怖症だから駄目」と断った。  何となく、佑輔以外の人間と、ああしたものに乗りたくなかった。郁也は平気で嘘を吐ける。高所恐怖症だなんて全くの嘘だ。
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