7、グラスグリーンに匂う風-2

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7、グラスグリーンに匂う風-2

 矢口が現れた。 「やあやあ、来てくれてたの。なあんだ、こんなことならもっと早く顔を出せばよかった」  こういうときは報せてくれよ、と矢口は傍らの店長の肘で突いた。「静かにお話されてたので」と店長は低い声で言った。  矢口の後ろには、派手な女性が三人程従いていた。キレイと言えばキレイなような、怖いと言えば怖いような彼女らのメイクに、郁也の目は釘付けにされた。  中のひとりが誤解したらしく、郁也にウインクをして、開いた胸元を強調するように身体をくねらせた。同じ女として少々カチンと来たらしく、郁也の隣で橋本がむっとした。 「君ら、食事は大体済んだ? あ、そう。じゃ、面白いとこへ行かないか。踊れるライブハウスがあるんだ。今日はちょっといいバンドが出る。今の時間はまだ前座だろうけど、踊れることには違いがないよ。どうだい」 「わっ、面白そう」と橋本がはしゃいだ声で応じる。郁也は時計を見た。まだ帰りたくない。ガランと空っぽの、ひとりの部屋には。 「いいね、行こう」 「ようし、じゃ早速」  郁也は立ち上がって財布を出した。 「何してんだよ。いいって」と矢口が慌てて止める。 「そんないつもいつも悪いよ」 「いいんだって。言っただろ、俺のオヤジの店だって」 「いいから。今日は女のコ連れなんだから、少しはいいカッコさせてよ」  矢口の口許から笑いが消えた。一瞬の後、矢口は再び上機嫌に笑ってこう言った。 「よし。じゃあ、今日はしっかり頂くとするか。店長、お会計お願いしまーす」  郁也は母から渡されているカードを出した。ここで飲食費を少し使って置く。  ライブハウスの入り口で、矢口は人数分のチケットを出した。 「あ、ボク払うよ。幾ら?」 「ははは。タダ」 「タダってことはないでしょ。幾らなの」  橋本が言った。矢口の店での分を考えて、ここでは郁也の分も払おうとしているようだった。 「商店街の振興協会みたいとこに顔出してるとさ、色々手に入るんだよ。天地神明に誓って、ここはタダだから。二杯目からのドリンク代だけ、払ってくれよ」 「ふうん、じゃ、信じよっと」  郁也は財布をしまった。  本命のバンドの出演時間にはまだ間があるようで、中はまだ空いていた。これがメインの時間になると、芋荒いのようになると矢口が説明した。 「伝統的にメインの出演って夜中なんだよな。それだと勤め人は来られないだろ。翌日のことを考えなくていい遊び人だけを相手にしてると、商売が先細ってしまう。ここをどうにかするべきだと思うんだ」 「矢口くんって、凄いねえ。建設業には勿体ないんじゃないの」 と橋本が言った。 「これからの建設業は、頼まれて建てて、はい、終わりってだけじゃないんだよ。どこにどういうものを建てると、どういう商売や生活が生まれるか、そこを提案する力がないと」 「お父さんが、矢口君に商売を学ばせるのって、ちゃんと理由があるんだね」  郁也は感心した。「まあな」と矢口は舌を出した。  矢口の連れていた女たちは、図々しく郁也の身体にも手を伸ばして来た。  肩にしなだれかかって、何事かを呟いた。香水のきつい香りに郁也が顔をしかめると、矢口が「ほら、嫌がってるから。離れて離れて」と追い払ってくれた。  郁也がほっとして深呼吸をすると、ひとりは橋本にべたべたと話し掛けていた。耳許で何か訊ねているらしく、橋本はそれに返事をしようと口を開く。  そうしているうちにも、女の手は橋本の髪を撫で、首筋を触り、肩を抱き締めんばかりに腕を回した。橋本は特に嫌がる風でもない。女のコ同士の会話なのかも知れない。  郁也は見るともなしに眺めていた橋本から視線を外し、ステージを見た。狭苦しいスペースだが、四、五人のバンドならこれで充分なのか。  がやがやと集まって来る客たちも、矢口の言うように、勤め人風のスーツあり、いかにものピンク色の髪の毛ありで、バラバラだ。  郁也は手許のウーロン茶をひとくち飲んだ。  頼んで氷抜きにして貰ったそれを、矢口の連れていた女のひとりが「やだあ、おばあさんみたあい」と笑った。矢口は怒ってその女を追い払ったが、そのコが出入り口のところできょろきょろしていた。  新たな知り合いに出くわすのを期待しているのだろう。確かにこんなところでひとりでいるのは、余り楽しいことではない。余程新しい出会いを求めているのなら別だろうが。  入り口の階段をまた数人が降りて来た。郁也がでかい図体だなと眺めていると、日本人ではなかった。雰囲気からして米兵かな、と郁也は想像した。  ガタイのいいのが三人、普通サイズの日本人に案内されて中へと入って来た。郁也は驚いた。  烏飼だった。  して見ると、烏飼の言う「ビジネス」の最中なのだろう。  烏飼はてきぱきと彼らのオーダーを訊いて、出て来たドリンクを手渡した。最後に自分もカップを貰って、ふっと店内を見回した。こちらに気付いた。 「やあ。こんなところで会うなんてね」  烏飼は親しげに郁也に近付いて、そう挨拶した。  郁也は背後の男たちを指差し皮肉に言った。 「ビジネスの最中のようだね」 「まあな」と烏飼は顔をしかめて笑った。烏飼は郁也の傍らにいる矢口に視線を止めた。 「そちらさんは、どなただい? 最近、この界隈でよく顔を見掛けるけど」 「ああ、ボクの友達」  郁也は矢口を振り返った。矢口は女のコの腰に腕を回したまま、むっつりとカップを口に当てている。 「ていうと、東栄の出身者かな。よろしく」  烏飼はそちらへ腕を伸ばした。 「I'm Luke Death. 『デスウイング』のルークで通ってる」  矢口は女の身体から腕を外して数歩下がった。 「おいおい。怖ろしげな二ッ名だな。俺、そんな迫力あるのに釣り合うようなもの、持ってないぞ」  はっはっはと矢口は笑った。別段気まずく思う風もなく、手を引っ込めた烏飼に、郁也は尋ねた。 「ルーク?」 「へ? ああ、ビジネスのときの名前だよ。香港人とか台湾人とか、よく中国名の他に、テキトーに付けた英語名持ってるだろ。ビジネスに都合がいいからなんだ。日本名じゃ、連中のスポンジみたいな脳味噌、記憶出来ないみたいでさ」 「Hey, Luke!」  烏飼の背後で男が叫んだ。「Ah! Sorry. I'll be coming.」と烏飼も叫び返した。  だから俺の本名知ってるのは、今この中で君だけだよ。烏飼は郁也の耳に吹き込むようにそう囁いて、彼らの方へ去って行った。 「おい、谷口。今のヤツ知り合いなのか?」  郁也は烏飼の囁いて行った耳を、軽く手で押さえながら矢口に答えた。 「ああ。同じ学部のひと」  一段声を潜めて「一度口説かれた」と付け足した。 「はああ?」 「ふざけ半分だったけど。その後佑輔クンでもいい、みたいなこと言ってたし。どっちみち、遊びか商売か、分からないようなひとだよ」  矢口は烏飼の去って行った方を見て考え込むように顎をこすった。 「俺の顔知ってたな」  郁也はくすっと笑った。 「あんまり手広くやってると、『縄張り荒らした』みたいに思われるかもよ」 「何の話?」  橋本が女に絡み付かれたまま、彼らの方に顔を向けた。 「いや、あんまり派手に遊び回ってると、今に酷い目に遭っちゃうかもよ、って矢口君を脅してたの」  そう郁也は説明した。 「そうだよ。みんなに気を持たせたままにして置くと、刺されちゃうんだから」  橋本はそこまで言って、「きゃっ!」と叫んだ。 「離れろよ。そのコはそういうの、慣れてないんだから」  矢口が橋本にくっついていた女を引き剥がした。好きなようにさせている橋本を、これはOKと思った女がどこかOKでない処に触れたようだった。 「今の何?」  橋本が胸を押さえて、渋々離れて言った女の背を見た。 「変わった女なんだ。気にしないでくれ」  矢口は橋本に説明する気はないようだ。  前座らしいのがステージに出て来た。客席がわあっと盛り上がった。フロア全体の照明が絞られ、替わりに色取り取りのスポットライトが動き回った。 「ここのお店のひと、男女の区別あんまりないの? さっきのひともほら、あの男のひとにお尻触られて平然としてる」  橋本が指差す先には烏飼が男たちのひとりに尻を揉みしだかれ、食い付かれそうに密着されて笑っていた。  音楽が始まった。  郁也も矢口も橋本の疑問はそのまま流してしまおうとしたが、橋本はいつまでも答えを待つのを止めない。矢口が困って郁也を見た。郁也は肩をすくめた。 「男のひとが女のひとにそんな風に触ったら、冗談にならなくなっちゃうでしょ」  郁也はそう橋本の耳の側で叫んだ。 「あっ、なるほど」と橋本は唇を丸くすぼめた。矢口は「上手く誤魔化したな」と郁也の耳許で言った。 「だって、本当のコト、説明出来る? このひとに」 「いや。無理だ」 「でしょ」  無邪気な子供時代の殻は、まだまだ橋本から外れそうにない。  羨ましいような、気の毒なような。  微笑ましくもあるし、正直面倒臭くもあった。  まあ、どちらにしても、郁也にとって、珍しい女のコであるには違いない。  そして、佑輔がこの矢口や松山たちを大切にするように、自分も橋本のことは大切に尊重していくのだと郁也は思った。
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