7、グラスグリーンに匂う風-4

1/1

77人が本棚に入れています
本棚に追加
/52ページ

7、グラスグリーンに匂う風-4

 何も考えられなかった。もうここに生きていたくなかった。  どこへ行くともなく、郁也はただ走った。頑丈そうな何かにぶつかり、走る郁也の方向が逸れても、全く感知せずに走り続けようとした。 「谷口? 谷口か。ちょっと待て」 「……松山君」  郁也は声のした方に顔を向けた。松山は自分にぶつかって来た郁也の手首を素早く掴んで、小動物を捕まえるようにそうっと郁也に声を掛けた。 「どうした? 何があったんだ? また瀬川の野郎か?」  郁也はふるふると被りを振った。 「かおりちゃんに、知られちゃった」 「どうしてまた」 「佑輔クン、今日自分のシャツ着て学校に来たのね。グリーンのチェックの。ボクがあの夜着てたヤツ。あの、みんなで初めて矢口君の店に行ったとき。ボクあのとき、佑輔クンのを借りて着てて」  ぽつぽつ語りながら郁也が少しづつ落ち着いて行くのを確認して、松山はそっと言った。 「……お前ね。そんなことしてれば、バレるよ」  郁也の目からはまた涙があふれ出した。 「だって、だってえ。あのとき、ボク、まほちゃんと買った新しい服、着て行きたかったんだもの」  松山は郁也の手首を捕まえたまま青くなった。 「どこが『だって』なのか、さっぱり分からん」 「可愛い春物のブラウスとスカート、着て行けると思ったら、松山君かおりちゃんのこと呼んじゃうから。じゃあ、せめて佑輔クンのシャツ借りようと思って」 「どこから『じゃあ、せめて』になるのか、論理が読めん」  松山は首を振った。 「よし、分かった。全然分からんが、とにかく分かった。お前そのツラでは講義どころではなかろう。俺が聞いてやるから、全部話せ」  立ち話って訳にもいかんな、と松山は何やら呟いて、ひと気のない図書館の裏手に郁也を誘導した。  構内の主要通路で、構内移動のための循環バスも通過する正面側とは違い、図書館の裏側は通るものもない(くさむら)だった。  盛り上がった木の根本に座った彼らの肩の辺りまで、雑草が生い茂っている。しばらく前に刈ったきり放置されているのは、予算のせいだろう。 「……かおりちゃんね、ボクのこと『好きだった』って」  郁也はしゃくり上げながら呟いた。ひっくと細い肩が上下する。松山が郁也を大声で叱り飛ばした。 「お前ねえ。だからお前は遠慮しとけって、俺言っただろ。何ひとりで資源の無駄遣いしてんだ。勿体ないって言葉、お前知らんのか」 「何だよお。そんなにポンポン言わなくたっていいじゃないか。ひとがこんなに傷付いてるのに」 「俺がポンポン言わなくて誰が言うんだ。瀬川なんかどっぷりベタ惚れで、お前にはひとっ言もないじゃないか。こんな下らんボランティアしてやるの、俺くらいのものだろう。少しは感謝して聞けよ」 「うう……」  負けじと言い返す郁也に、また松山は勢い良く言い返し、遂に郁也は何も言うことがなくなった。郁也は黙って涙を流した。松山は郁也が泣くままにして、自分はその側に座って風に吹かれていた。しばらくして松山は言った。 「お前、理屈っぽいし、回転早いから今まで分からなかったけど。アタマん中、まんま女な」  郁也は恨めしそうに松山を上目で見た。 「そうだよ。そう言ったじゃない。ボクが自分のこと話したとき、松山君もその場にいたよね」 「いたけど……。いや、こんなに理解出来ない論理を吐く人種が、この世にいるとは思わなかった。俺的にはこれまで築き上げた常識が、ガラガラ崩れ落ちるくらいの衝撃だ」 「ボクで練習して置きなよ。本番前に充分さ」  こんなボランティアして上げるの、ボクだけだよ。郁也はようやくくすりと笑った。 「こんなのと日常普通にやってけるなんて、瀬川のヤツ、大したものだな。俺、心の底から尊敬するわ」 「……ボクだってベタ惚れだもん。佑輔クンにはあんまり無理なこと、言わないよ」 「俺には言うのか」 「だって、ボク、松山君には惚れてないもん」 「はあーあ」  松山はがっくり肩を落とした。  郁也は深呼吸した。タンポポの綿毛が鼻に付いてむずむずした。 「ごめんね、松山君。ありがとう」 「いいさ、別に」  松山はタンポポを一本むしって、綿毛をふうっと吹き飛ばした。白い綿毛は風に乗ってふわりふわりと飛んで行った。  郁也は小さくくしゃみをした。松山が黙ってティッシュをくれた。郁也は一枚取り出して鼻先に当て、「何か松山君て、ボクの本当のお兄さんみたい」と言った。 「何かお前って、俺の本当の妹みたい」  松山は郁也を横目でじろっと見て言った。 「自分の友人のところに嫁に出したはいいが、所詮自分の友だちなんて高が知れてて、何かある度に心配んなってちょこちょこ首突っ込まざるを得なくなる、大バカ兄貴の気持ちだよ」  とほほ、と松山は頭を抱えた。 「松山君……」  松山はくっと首を上げて、空を仰ぎ見た。 「ま、仕方がない。乗り掛かった船だもんな。あのとき、お前が入院した後、お前をこれ以上泣かせんなって瀬川をぶん殴ってから、この役割は俺に固定なんだ。後はせいぜい矢口くらいか」  矢口か。察しのいい彼なら、橋本の気持ちなど、とっくにお見通しだったろう。教えてくれればよかったのに、と郁也は思った。  だが、そんなおせっかい、彼の柄じゃない。何もかも見透した上で、心配そうに成り行きを見守る。それが彼に相応しい。先回りして本人たちの経験を妨害するようなことは決してしない。 「お、そうだ。あいつにメールして置こう。こんなに苦労してやって、下らない焼き餅焼かれちゃ堪らんからな」  松山はポケットからケータイを取り出した。 「あいつ、まさか電源切ったりしてねえだろうな。ああ、えーと。『本日晴天なれども波高し。二コマ終了後直ちに三人分の糧食を確保の上、図書館裏に来られたし』と。こんなもんだろ」 「暗号電文にでもした方が、感じ出そうな文面だね」  郁也は笑った。松山は「俺ってセンスいいだろ」と得意げに胸を張った。 「理系にしとくのは惜しい程のセンスだからな」 「あ!」  郁也の顔がパッと明るくなった。 「ボクもそう言われたよ、中野君に」 「おお、それそれ。中野サン、頑なに文系上位論者だったからな」  彼らと同期の美術部の中野は、文系学問を「人類の英知を検証する学問である」として、所謂実証科学の上に位置づけていた。実証科学の実証が何を実証しているか、検証する機能を持つメタ科学である、と言うのだ。  「偏った、面白いヤツだったよな」 「多分、一生あんな感じだよ。ボクと同じクラスになった中等部の頃、十二歳で既に彼はああだったからね」  ざわざわと遠く学生たちの話し声が聞こえた。早めに切り上げる先生の講義が終わった頃合いなのだろうか。  松山は時計を見た。そろそろだ。何があったかと血相を変えて、三人分の弁当を抱えてあの角から、佑輔が掛けて来る。  郁也は待ち遠しく感じた。松山がくれたティッシュで頬を拭いて、前髪を整えた。涙で顔に張り付いた髪の筋を、元の位置に戻してやる。仕上げに睫毛をパチパチ動かした。 「女のコだねえ」  松山が感心した。  泣いてたのはバレちゃっても、あんまりブスな顔は見せたくないんだ。だって、千年の恋が、冷めちゃうからね。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

77人が本棚に入れています
本棚に追加