8、カドミウムイエロー、天国の門から漏れ来る光-1

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8、カドミウムイエロー、天国の門から漏れ来る光-1

 無言で、ふたりは部屋へ向かった。  佑輔は自転車を押して。郁也は鞄をぶらぶら提げて。  どちらも、口を開けなかった。  道端でさっきの続きを始めたら、悪くするとふたりの部屋へ帰り着けなくなりそうな気がしたからだ。  郁也は隣を歩く佑輔の気配を味わった。この質量、熱量、空間内に占める拡がり。どれもみなこの上なく大切な感覚だ。  初めてふたりで街に出たとき、プラネタリウムで隣に座った佑輔のこの存在感を、郁也はこっそり胸に灼き付けた。もう二度と味わえない感覚だと覚悟していたからだ。十六の夏。思い出すだけで涙が出るほど、切なかったあの気持ち。それは今も郁也の中心を形作っている。  佑輔は無言で自転車を押している。珍しく俯き加減のその肩は、しょんぼりと下がって、叱られた子供のようだった。この肩がこんなに下がったのは。  郁也のせいだけではない。  いや、全て郁也のせいだろうか。だとしたら、そうだったら、郁也は安心して佑輔を許すことが出来る。笑って謝ることが出来る。    どうか。どうか神さま。郁也は祈った。 (どうか、神さま。ボクから佑輔クンを取り上げないで!)  ボク、佑輔クンがいてくれなかったら、この世界で生きてはいけません。  佑輔クンなしの人生なんて、このひとのいない生活なんて、ボクには何の意味もない。耐えられません。  幾らお母さんが、お父さんがいてくれたって、それでボクが生きられる訳じゃない。  こんな身体にボクを作って、こんな世界にボクを落として、ボクはどうやって生きていけばいいんですか。  どんな辛いことがあってもいい。どんな苦労をしたっていい。何を失っても構いません。だから、だから。  だから、どうか、ボクに、ボクの側に佑輔クンを。  たったひとつ、ボクの希望を。  ボクの手から、取り上げないで。  お願い、神さま。  お願いします。  そう強く念じていると、郁也の目からはまた涙があふれて来た。  ひくっとしゃくり上げたその音を聴いて、佑輔が慌てて振り返った。 「郁……」  郁也は首を横に振った。 「何でもない。何でも、ないの」  ただ、やっぱりボク、佑輔クンが好きだなあと思ったら。  何だか泣けて来ちゃったよ。  郁也がぐすぐすすすり上げていると、佑輔が自転車を止め、荷台を郁也の方へ向けた。 「乗れよ」  郁也は迷った。佑輔の焦茶の瞳が、キレイに澄んで郁也を見つめていた。佑輔がバイトにのめり込んでから、こんなに澄み切った瞳を見なかった。  郁也は、思い切って頷いた。郁也が腰に掴まったのを確認して、佑輔はゆっくりペダルを漕いだ。 (あったかい……)   後ろから掴まる佑輔の身体は、以前よりもほっそりしていたが、温かみは変わらなかった。 (大好き) (やっぱり好きだ)  神さま。やっぱりボクは、佑輔クンが大好きです。 「ごめんな、郁」  佑輔は玄関を入るなり、そう言って頭を下げた。  郁也は慌てて部屋へ駆け上がり、努めて明るく「ちょっと待って。先ずお茶を淹れよう。話はそれから」と薬缶を火に掛けた。  聞きたかった本当のことを、いざ聞くとなると先延ばしをしたくなる。  湯呑みがふたつ、湯気を立てて、こたつのテーブルにちょこんと並んだ。古道具屋で見繕った湯呑み。それなりの品揃えの中から、一生懸命選んだ品だ。  夢に見たふたりの生活を始めるための品々。どんな高級な陶磁器よりも、郁也にとっては貴重な品だった。 「ふふふ。何か、新鮮だね。改まってこうして話すのって」  郁也は緊張して思わず照れ笑いをした。佑輔はそんな郁也の笑顔を見て、ややほっとした顔になった。素直なひとだ。そう。このひとは、本当はこんなに嘘の吐けない、素直なひとだった。 「郁。俺に何が聞きたい? 俺、郁に、何を話せば許してくれる?」 「佑輔クン……」  佑輔は握り拳を膝に載せて、生真面目に座っている。正座の出来ない郁也と違って、きちんとした姿勢だ。郁也は切り出した。 「じゃあ、言うよ。どうして、佑輔クンは、そんなにバイト入れちゃうの。ボクらの生活費って、そんなに足りないの。ボク、何度も計算して見たけど、どうしても分からない」  郁也はそこまで言って言葉を切った。  これだけなら、今までに何度も訊ねてきたことと同じだ。折角こうして機会を設けたのなら、日頃聞けなかったことを聞くべきだ。  だが、それを聞いてしまったら。  神さまは郁也の手から、この優しいひとを取り上げてしまうかも知れない。郁也は逡巡した。佑輔は郁也の次の言葉を待っている。  十六の秋、本当だったら郁也はとうにこのひとを失っていた。それが今もこうしている。人生は無限の分岐で出来ている。選ばなければ、苦しみも終わらない。  郁也は息を吸った。 「佑輔クンがそんなにお金が要るのって、もしかして」  郁也の視界がぼやけた。 「ボクから遠くへ逃れたいの? 誰か他に好きなひとが出来た? ううん、まだそんなひといなくても、いつかそういうひとが出来たときのために、淳子サンが家賃を払うこの部屋から、出て行きたいの、かな」  郁也は笑ってそう訊いた。小首を傾げて、いつものように。ただ、目からは涙があふれ続けた。郁也は泣いていた。ぽろぽろ泣きながら、可愛らしく笑っていた。  佑輔の肩がぴくりと動いた。郁也が泣くと、いつも反射的にその肩を抱いて、指で頬を拭ってくれる。今日もそうしようとしただけ。ただ、話がまだ終わっていないので、動けないでいるだけ。だよね。  だよね。  そうだよね、佑輔クン。  佑輔は尚も動かない。  郁也は心臓がいつか止まることがあるのなら、たった今止まってくれと願った。  佑輔なしに生きるのなら、今ここで死んでしまった方がマシだ。  郁也は訊いてしまったことを後悔した。  辛くても、苦しくても、佑輔がいてくれた方が何百倍もマシだった。  佑輔は答えない。 (……ああ。ボクは、賭けに、負けたんだ)  郁也はもう顔を上げていられなくなって、そのままテーブルに突っ伏した。  号泣する郁也に、佑輔は恐る恐る、「郁、抱いても、いいか」と声を掛けた。郁也がいつまでも答えずにいると、佑輔はそっと横から、郁也の身体に覆い被さった。 「止めて。ボクのものでなくなっちゃうなら、そんなこと、しないで」 「どうしてだよ。郁はもうそんなに、俺のことキライになったのか」  郁也の耳に、佑輔がそう囁いた。  「俺は確かに、郁がもう来るなと言うまで、郁に従いて行く積りだよ。だから、郁がもう俺を要らないと言うなら離れるけど。諦めることは出来なくても、離れはするけど」  佑輔の声が震えた。 「さっきの郁の質問は、そんな風には聞こえなかったよ。だって、郁、俺が金が要るのは何故って訊いただけだろ。仮定の話は確かにしたけど、イエスかノーか訊いたんだよな」  佑輔の肩が、胸が大きく震えるのが伝わって来る。 「答えはノーだよ。決まってるだろ」  佑輔が、郁也の身体を強く抱き締めた。佑輔の身体は尚も震える。 「どうして信じてくれないんだよ!」  佑輔は腹の底から絞り出すように郁也に問い掛けた。郁也は佑輔のその勢いに胸をぎゅっと掴まれた。  どうして。  どうしてかと問われればそれは。  佑輔の胸の中で、郁也は身体の向きを変えた。そろそろと郁也は佑輔の顔を見た。佑輔のキレイな茶色の瞳を見たかった。その瞳は郁也を映して濡れていた。ぽろ、と涙がこぼれるのを見た。佑輔の涙だ。 「信じたかったよ。ボクがどんなに佑輔クンを信じたかったか。毎日、疑問が湧き上がる度に、そんなことない、そんなのボクの妄想だって、必死に信じようとしたよ。だけど」  郁也は泣きながら微笑んだ。顎を引いて小首を傾げて。郁也の癖だ。 「佑輔クン、何も教えてくれないんだもの。佑輔クン、ボクに言ったよね。『一緒の大学に行こう』って。『そしてそこで一緒に住もう』って。そしてようやくそうなったのに、佑輔クン、ちっとも側にいてくれないじゃないか」  郁也は佑輔の頬を撫でた。ぽろ、ぽろと頬を伝う佑輔の涙を、郁也がその指で拭ってやった。愛しいひと。頬骨がすっかり高くなって、目もひとまわり大きくなった。 「そんなに痩せちゃって、朝も起きられなくなって。それが必要なら、ボクは何も言わない。ボクも一緒に働くよ。一緒に暮らすって、そういうことでしょ?」  佑輔は郁也の言葉を嚙み締めるようにその目を閉じた。大きくひくっと肩を揺らした。 「ボクのせいかなって初めは思って、何を訊いても答えて貰えなくて、しばらくしたらボクのせいじゃないのかなって。そんなの否定したいのに、否定しきれなくなって行くんだ」  郁也は「目を開けて」と佑輔に涙声で命令した。焦茶の瞳を前に郁也は大きく呼吸した。佑輔の瞳を覗く目に力を入れる。 「佑輔クンは、どうしてそんなにお金が欲しいの」  佑輔は、ひとの目を見て嘘を吐けない。そこが郁也と違う処だ。郁也は佑輔の目をじっと見た。佑輔の茶色の瞳が、何かを観念したように光った。
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