9、女神はウルトラマリンの裳裾を引いて-2

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9、女神はウルトラマリンの裳裾を引いて-2

 追加の飲みものを取りに矢口が立ち上がった。台所から戻って来た矢口は飲みもの数本の他に、白い紙箱を手にしていた。 「谷口、ほら、こういうの好きか?」  目の前に差し出された箱を郁也は受け取った。郁也がそれを開くと、中には細工も美しい洋菓子が鎮座していた。 「わあ……! 美味しそう」  郁也の目がきらきらする。矢口は皿とフォークを人数分サイドボードから出して来た。佑輔の視線に気付き、松山は矢口を指差した。 「そう。本家本元。俺、こいつから習ったの」  話題が話題だけにしょんぼりしていた郁也だったが、破顔一笑、洋菓子を嬉しそうに口に運ぶ。佑輔はその様子を複雑な顔をして眺めていたが、しばらくして言った。 「周囲の女のコに対しても、田端にするみたいな態度を取ればいいんじゃないのか」 「佑輔クン」  郁也のフォークが止まった。  佑輔は郁也の視線に目をそらした。先日の、松山に保護されていた図書館裏での遣り取り。佑輔がそれを思い出しているのは間違いない。  佑輔の声は、表情は暗かった。普段、「考えてもしようのない事は、考えない」とあっけらかんと生きている、その佑輔が珍しくこぼしてしまった自己嫌悪。 「田端君って……」  佑輔の表情からは後悔が読み取れた。郁也は食べかけの洋菓子の載った皿を、コツとテーブルに置いた。 「どういうこと。はっきり言ってよ」  郁也は佑輔の膝に手を掛けた。 「こらこらこら。ここでケンカするな」  松山が故意と明るい声を出した。その後を矢口が引き取った。 「瀬川はね、とっくに気付いてたんだよ。田端がお前のこと、諦め切れずにいることを。気付いて黙ってたんだ。そうじゃないと、あんまり田端が気の毒だからってね」  優しい男じゃないか。何の不満があるって言うんだ。そう松山が諭すような口調で郁也に言った。郁也が佑輔の顔を覗き込んだ。 「佑輔クン?」  佑輔は観念したように顔を上げた。 「ああ。分かってたよ。っていうか、郁は隠してた積りかも知れないけど、郁の机に入ってた手紙、俺全部知ってたよ。盗み見たりはしなかったから、差出人を全て押さえてた訳じゃないけど。だって俺、背伸びてからは席はいつも郁より後ろで、朝席に着いてからの郁の動きなんて、手に取るように見えてたんだから」  郁が手紙を鞄にしまう素振りをして数日、田端の動きがおかしくなることが二、三度あって、ああ、あいつだなって。 「でも、そんなこといちいち言ったら、何か、俺が変なヤツみたいだろ。スト―カーみたいに思われたら嫌だなって、俺言えなかったよ。でも」  俺が田端に気付いたように、田端もきっと俺のこと気付いてたよ。  佑輔はまた下を向いた。 「……うん。そうだね」  郁也は頷いた。  確かに、郁也は田端に誤解されないように、普通に普通に接していた。冷たくせず、必要以上に優しくせず。適当な距離感。そうか。そういうことか。 「かおりちゃんはね」  郁也はケーキに合うようにと矢口が淹れてくれた紅茶をひとくちすすって、肩の力を抜こうとした。 「ボクに初めて出来た女のコの友達だったんだ。ボク、まほちゃんみたいに色々話せる、女のコの友達欲しかったんだよ。街で見掛ける女のコ達みたいに、きゃあきゃあはしゃいでおしゃべりして。そういうの、つい羨ましくて。かおりちゃんは女のコだけどあっさりしてて、まほちゃんみたいに。ボクでも従いていけそうかなって思えた。だからボク」  郁也はそこで松山を、矢口を見た。 「みんなみたいに大事にし合う友達、ボクも作ろうと思ったんだ」  松山はふっと笑って郁也の頭に腕を伸ばした。郁也の髪にぐしゃっと乱暴に手を入れて郁也の頭を揺さぶった。 「馬鹿だなあ。お前だって俺たちの友達じゃんか。俺たちがこんなにお前のこと大事にしてるのに、まだ不満なのか」 「いや、そうじゃないだろう。谷口の言うのは『同性の友人』っていうことで、俺たちとは違う次元のことなんだよ」 と矢口が解説する。 「ああ、そうか。それじゃ仕方ないな」 と松山が手を引っ込めた。そちらを軽く睨んで、佑輔が指で乱れた郁也の髪を整えた。 「松山君は、もう友達って言うより『お兄ちゃん』だから」  郁也はそう言って小さく舌を出した。松山がついでれっとするのを見て、佑輔は面白くなさそうに口を尖らせた。 「何だよそれ」 「だって」 「はいはい、ストップ。そっから先はおウチに帰ってからにしなさいね」  そんな掛け合いの後、郁也が改まって松山に言った。 「『資源の無駄遣い』って何度も言われたけど、松山君かおりちゃんのこと好きだったとかじゃないよね?」  何かボク、全体的に自信がなくなっちゃったよ、と郁也はぼやいた。 「ボクだけがぼうっとしてて、気付いてないことがまだまだあるんじゃないかって気がして来た」  松山はきっぱり首を横に振った。 「いや。俺、ああいう真っ直ぐなの駄目。惚れない」 「そうなのか」  今日はやられっ放しの佑輔が、息を吹き返して突っ込んだ。 「ああ。何て言うのかな。深みがないだろ。橋本も、演劇部の女子たちも、みんな可愛いことは可愛いんだけど」  別に俺、メンクイじゃないし。松山が付け加えたひと言は、佑輔に対しての当てこすりだ。 「可愛いけどそれだけって言うか。もうちょっとキャラクターに深みを感じさせるひとでないと、魅力を感じない。……ということに最近気付いた」 「ほお」  佑輔は片眉を上げた。 「そうお前に気付かせたひとが、いたんだな」  松山は佑輔にあっかんべーと舌を出した。 「そのひとりは、お前のお姫さまだよ。谷口みたいにさ、悩むことや辛いことがあると、その分深いよな。俺はそいつには惚れないけど、そのヘンの女のコに俺が魅力を感じない理由のひとつはそいつだよ」 「ぬけぬけと俺の前で、この野郎」  佑輔が松山の首に腕を回し締め上げる。 「あはは。ギブギブ。矢口、助けてくれ」 「お前ら、暴れてグラス倒すなよ。汚したら買い手が付かなくなる」 「わあ、やっぱり、お父さんの会社の不良在庫なの、ここ」 「はっきり言うな。その通りだよ」 「じゃあ、まほちゃんの予想が当たったな。さすがまほちゃん」 「え、お姐さん何か言ってたのか」 「どうしたの松山君。突然喰い付いて来ちゃって。ああ。さては」 「痛い。苦しい。谷口、笑ってないで、お前の亭主を止めてくれ。早く」 「止めて欲しかったら、白状するんだね」  いつしか夜は深まっていた。黒い女神の裳裾に無数のスパンコールが瞬いた。矢口の部屋からはこの都会の全てが見えるようだ。  郁也は夜景がこんなにキレイなら、昼の光の許で見る街の景色はどんなに美しいだろうと思った。矢口は、 「別に美しくも何ともないよ。ごちゃごちゃしてて、薄汚れててさ」 と言った。郁也はそんなものかなと思った。  高い位置から見渡す空。地面からビルの隙間を見上げるのとは違って、青い空は広いと思えた。この壁一面の窓のうち、空が占める割合。ここが全て青空なのだ。  郁也は天気のいい昼間、またここに来てもいいかと矢口に訊ねた。矢口は当然と首を振って、 「今度瀬川と昼間に来い。間違ってもひとりでは来るなよ」 と笑った。  郁也は「それ、どういう意味?」と小声で聞いたが、矢口は笑って答えなかった。郁也も答えは期待していなかった。郁也のようなコを、微妙な扱いで構ってくれる。矢口はやっぱり手慣れたプレイボーイだった。  このひとも、いつかこの世の幸せに出会えますように。  郁也は感謝とともに心の中でそう祈った。
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