9、女神はウルトラマリンの裳裾を引いて-3

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9、女神はウルトラマリンの裳裾を引いて-3

「何で『死神』なの。別にお店からはフリーなんでしょ」  郁也はざっくりそう斬り込んだ。尤も、本人には斬り込んだ積りは毛頭ない。  斬り込まれた烏飼だけが、さも痛そうに胸をさすった。 「痛たたた。君ってやっぱり刺激的。どうしてそうも容赦ないかなあ」  離れた席で「わあーっ」と歓声が上がった。二十前の子たちが馬鹿騒ぎを繰り広げる。店のほうも慣れたもので、そのうるささにも寛容に客席を切り回す。  今夜は理学部一年生、S1とS2の合同懇親会だった。郁也はこうしたものに興味はないが、これから四年間、もしかするとそれ以上、協調しないとやっていけない連中と、一度くらい親睦を深めて置いても悪くはないか、と半ば修行のような気持ちでやって来た。  烏飼も参加する気はなかったようだ。クラス役員がこの会を設定して出欠を取りまとめていた頃、烏飼は同じ講義に出ていた郁也の許へやって来た。会場が自分の縄張りから数キロ離れたこの大学界隈なら、そして郁也が出席するのならと烏飼はぶつぶつ呟いていた。  人当たりのいい烏飼は既に、慌てて親睦を深めることもなく多くの学生たちと顔見知りで、講義や試験についての情報交換をしているようだった。  乾杯の後、腹を満たしつつ隣合ったもの同士での会話も滞りなく進み、座が乱れて来ると烏飼は郁也をカウンターに誘った。郁也も賑やかさに疲れて来たので、これ幸いと烏飼に続いた。 「ああ、御免。まずかったかな」  郁也はあっさりと退き下がった。別に烏飼に興味がある訳でもない。ただ、ライブハウスで矢口と出会った烏飼がビジネス名を名乗ったとき、「I'm Luke Death.」と名乗ったときに違和感を覚えたのだ。 「死神」と「ルーク」という名前がこれでは同格だった。言い直した日本語では「店名」で名乗っているように聞こえたのに。 「ははは。別にいいよ。そうだな。君には喋っちゃおっかな」  烏飼は歌うようにそう言って、ずるそうな目で郁也を見た。郁也は警戒しながら、「だから別にいいってば」と顔をしかめた。  いいだけ騒いで、一次会はお開きとなった。松山は皆に従いて二次会へ流れると言った。郁也はさっさと帰ろうとした。烏飼が歩き去ろうとする郁也の腕を取った。 「ふたりで飲み直さないか」  郁也は烏飼の顔を見た。烏飼の表情にはいつもの下品な皮肉っぽさもなく、素直な普通の若者のようだった。郁也は少し考えて返事をした。 「ボク、お酒飲まないけど。待ってるひとがいるから長居出来ないけど。それでもいいんならいいよ」  烏飼はその高飛車な返事に愉快そうに大笑いした。 「やっぱり君って、面白いや。分かってるよ。君があの彼のお姫さまだってことなんか。じゃあ、短い時間だけでも付き合って」  そうしてふたりは学生街のジャズ喫茶に潜り込んだ。地下へ続く階段を降りて、観葉植物の蔭に隠れるように付いた扉を開くと、中は薄暗く、レコードのコレクションが壁を埋め尽くし、これまた年代物の店主がプレイヤーの向こうでひっそりと煙草を薫らしていた。適度な音量で掛かるジャズの名盤が、話し声が他所へ漏れるのを遮断する。 「俺、あの街にデビューして、二年の間に三人殺したの」 「え?」  烏飼は注文したジントニックのグラスを軽く揺らした。氷がカランと澄んだ音を立てた。  郁也は烏飼の冗談に付き合うために、ブランディを落としたコーヒーを貰った。その香りを嗅ぎながら、郁也は湯気の向こうの烏飼を観察した。 「実際に死んじゃったのはそのうちひとりだけだったけど。驚くよな。俺と付き合った男が次々に自殺するなんて。それで付いた綽名が『死神』。店の名前は偶然さ。だってその頃にはあんな店、影も形もなかったからね」  烏飼はくいっとグラスを傾けて、ふふっと笑った。 「君が何か酷いことをしたのかい」 「そんなことしないさ。まあ、ちょっと他所で遊んだりはしたけど。そんなのお互いさまだろ。何も死ぬほどのことじゃない」  郁也は黙ってコーヒーを飲んだ。烏飼の肩が淋しそうに傾いでいた。郁也が烏飼のそんなところを見るのは初めてだった。郁也は少し驚いた。 「君は、幸せそうだねえ」  烏飼は眩しそうに目を細めた。 「君は? 幸せじゃあないの」  烏飼はくすくす笑った。 「幸せかあ。昔あったよねそんな唄が。『幸せって何だっけ』って」  烏飼はジントニックのお代わりを注文した。 「俺、十四のときに、何だかどうでも良くなって家を飛び出したんだ。そうして街にデビューした。モテたよ。モテまくり。そういう若い慣れてないヤツが好きって男も、結構いるんだ。何だ、こんなもんかって思った。大したことないんだなって。それまで悩んでたのが、何か、本当に馬鹿らしくなった」  郁也はそっと烏飼の話に頷いた。部分的には共感出来る。 「遊びに遊んで、身体の方は大分満足したときに、ふっと怖くなったんだ。淋しいっていうか、良く分かんないけど。自分の中が空っぽなことに突然気付いたような。またよくしたものでさ、そういうときに限って、俺に惚れて来るヤツがいる訳よ。まあ、断る理由もないし付き合って。その辺は何の変哲もないただのラブストーリーだと思うんだよ。けど」  カランと小気味いい音が響いて、新たな客が入って来る。彼らが離れた席に落ち着くのを見届けて、烏飼は続けた。 「しばらく付き合ってると、何だかおかしなことになって来るんだ。他の連中にもよくある笑い話が、全然笑えなくなって、殴り合って罵り合って。揚げ句の果てに」  烏飼は喉を掻き切る仕草を見せた。笑いながら。 「そして何故かそれが三人だろ。……終いには誰も俺に近付こうっていうヤツはいなくなった。十六の年にはもう俺は絶望したね。誰からも相手にされずに俺は死ぬのを待つだけだって」  十六。郁也にとってもそれは大きな意味を持つ年だった。郁也も絶望に打ちのめされていた。だが、郁也の絶望は、最後には奇跡によって希望へとその様態を変えた。 「デビューした十四の頃よりもっとどうでもいい気分になって、俺、生き方変えたんだ。良くない店に出入りして、金を稼ぐことでヒマを潰した。色々やったよ、今もやってるけど。もう地元の人間は俺を相手にしないから、観光客とか物色して。俺ちょっとばかし頭の出来が良かったからさ、バッティングするヤツの少ない外人客を狙って英語覚えたりして。ほら、外国人てヤバいヤツも混じってるから、敬遠されるんだよね。俺はもう守るものなんてないからバンバン相手して。そうすると、余計周りのヤツらからは嫌がられるんだ。リスキーだろ、そんな外人とばっか遊んでるヤツ。病気とか、色々さ」  だから最近では、俺が「死神」と呼ばれることになった本当の理由なんて知らずに、そう呼ぶヤツらの方が多いくらいさ。はは、「死」を運んでると怖れられてる訳。  烏飼はさも愉快そうにカラカラ笑った。郁也は居たたまれないような気持ちで、烏飼の言葉の重みを味わった。しばらくしてようやく郁也の口から出たのは、疑問だった。 「君は結局、誰か好きになったひとはいたの?」  自殺しようとしたひとたちは、君のこと、そんなに好きだったんだよね。郁也は小首を傾げてそう訊いた。烏飼は一瞬真っ黒な顔をして黙り込んだ。 「……いや。誰のことも好きじゃなかった」  分からないんだ、俺。誰かを好きだとか、惚れてるとか、そういう気持ち。  郁也は(ああ、ここにも矢口君がいる)と思った。烏飼が矢口に似ているのは、雰囲気だけではなかった。誰からも好かれ、誰をも好きになれない孤独。 「そっか」  郁也はようやくそう相槌を打った。  音楽がいっとき止まった。店主がレコードを掛け替える。後から来た客(それは若いカップルだった)のために、明るい曲調の女性ヴォーカルが選ばれた。店内が少し明るくなった。烏飼は居心地悪そうに腰を動かした。郁也は烏飼が歩いて来た曠野を思った。 「君の不運は、誰かを想う気持ちを知る前に、身体の欲望が目覚めて独り歩きしてしまったことなのかな」 「え……?」  烏飼は心底不思議そうに郁也を見た。 「君は、そうじゃないのかい? 君はどうだったの」 「ボクは。……或るひとを凄く好きになって、悩んで悩んで、昼も夜も苦しくて、そのひとのことばっかり考えて。そうするうちに段々と」  烏飼は厳しい口調で釘を刺した。 「まさかその相手がいつものあの彼だなんて言うんじゃないだろうね」  郁也は黙って頷いた。烏飼は「はあー」と大きな溜息を吐いた。 「まさか、そんなお伽噺みたいな人生って、本当にあるんだ。驚いたな。あり得ないよ」  そう言って烏飼は頭を抱えた。郁也は困ってコーヒーを飲み干した。  しばらくして、烏飼は頭を上げた。 「そうか、だから君って『夢見るお姫さま』って感じなのかな。そういう物語の登場人物だから」 「『夢見る』……」  郁也は何とも言えない気分で口を閉じた。 「いや。君がおネエさんなのは分かってたけど、俺が知ってる姐さん方のような、猥雑さって言うか、ズレた感じが全然しなくて、浮世離れしたようなキレイな感じがしてたから。どうしてだろうって興味を惹かれて」  あ、別に君を口説こうって気持ちはもう全然ないから、安心してなよ、と烏飼は慌てて付け足す。 「呆れたな。本当に『お姫さま』だったんだ」  君の周りで君のこと守ってる東栄出身の彼らも、だから君のこと、大切にしてるのかな。烏飼こそが夢見るような目で最後にそう言った。 「ここ……どこ?」  地上に出た郁也は辺りをきょろきょろした。佑輔と住む部屋とは正反対の学生街には、足を踏み入れたことがなかったのだ。烏飼は時計を見て舌打ちをした。 「まだひと稼ぎ出来るな。俺これから『出勤』するから、一緒に地下鉄に乗ろう。こんなところに姫ちゃんを捨てて行けないよ」 「『姫ちゃん』?」 「さ。行くよ姫ちゃん」  姫ちゃん?  歩くのと掛かる時間は変わらないが、郁也は地下鉄を乗り換えて部屋へ帰ることになった。  乗換駅で郁也が降りるとき、烏飼が明るく「じゃ、またね姫ちゃん」と手を振った。周りの乗客が郁也をじろっと見た。郁也は小さくなって逃げるようにホームを歩いた。烏飼は上機嫌にまだ手を振っている。  姫ちゃん?
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