10、私の青空~Mon Ciel Bleu~

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10、私の青空~Mon Ciel Bleu~

 今年の学祭、「仮装大賞」候補は須藤の「白雪姫」らしいぞ。松山がケータイを見ながら郁也にそう報告する。 「え?」  講義の合間の空き時間。今日も郁也は松山と田端と学食にいた。佑輔は専門の講義で農学部に行っている。もうじき戻って来るだろう。 「あいつ、どこまでもお前の後を追う積りなんだなあ」  郁也はくすっと笑った。 「オリジナリティーを追求するより、手軽なんだろう。画像も残ってるし」 「ああ、成る程ね」 と田端が感心した。  そうか。もうそんな季節だ。  風がどんどん暖かくなって、葉緑素の匂いが強くなる。生きものが少しづつ、この北の空の下で元気になる。 「誰が報せて来たんだい?」  田端が松山のケータイを指差した。 「ああ、演劇部の俺の後輩。須藤のヤツと同じクラスでさ、そいつがメイクを担当するんだと」 「あはは、君らのコンビと同じなんだね」  田端が郁也と松山を交互に見て笑った。 「あの須藤のビラビラした派手な顔なら、またひと騒動ありそうだな。全く、須藤と言い、お前と言い、もう少し遠慮したっていいのに。学院生の殆どは日常本物の女に触れることなんてないんだから。目の毒っつーか、何つーか」  また今年も、須藤に悩殺されるヤツが大勢出るんだぞ、傍迷惑な話だぜ。松山はそう吐き捨てて飲みものを求めに席を立った。郁也はその後ろ姿に呟いた。 「いくら悩殺されたって、どうせ本気じゃないんだから。どんなに熱を上げたとしても、時期が来ればみんなすっかり治っちゃうんだ。感染症と同じだよ」  一時の気の迷いなんてそんなものだ。だからってそうした熱に浮かされた男のコが、実際に男のコの郁也を抱き締めてくれる訳じゃない。 「俺も、そう、思ってたんだけどな……」  田端がぽつりと言った。  郁也はゆっくりと振り返った。  黒縁のお洒落な眼鏡の奥で、田端の瞳が真っ直ぐ郁也を見つめていた。 「……田端、君」 「君には瀬川だっているし、俺なんかが幾ら未練がましく想ってたって、何にもならないって分かってたんだけど」  あはは。思うようにならないものだね、自分の気持ちって。そう言って田端は笑った。  吹き抜ける春風のような爽やかな笑み。郁也にこんな軽やかな笑みを向けるために、どれだけの苦悩と葛藤があったことだろう。  田端はもしかして、郁也が男のコの身体をしていても、それを郁也が許しさえすれば、乗り越えて来てくれたかも知れない。B大への進学を棒に振ってでも、郁也の側にいたかった田端なら、もしや。  だが、郁也にifはない。 「田端君……」  田端は笑顔の奥に隠していた真剣な眼差しを郁也に向けた。郁也の心臓が一瞬止まった。 「一度だけ、俺のこと名前で呼んでくれないか。それで、そのひとことで、俺、きっぱり君のこと諦めるよ」 「田端君」  郁也は咽に痞えた空気の玉を、呑み込んでしまおうと努力した。 「……ここで、いいの?」  ただ一度のことならば、もっと思い出に相応しい場所を選んでも。田端は首を振った。 「ああ。ひと目のある処じゃないと。俺、自分が何をするか分からないからね」  田端は軽い調子でそう言った。郁也に負担を感じさせないように故意とふざけた口調にしたのだ。郁也には分かる。田端の気遣い、郁也はこれを一生忘れない。 (ありがとう、田端君)  「分かった。行くよ」  田端は頷いた。 「……省吾、クン」  省吾クン……。  田端の眼鏡の奥で、何かがきらっと光った気がした。郁也は目を伏せた。 「省吾クン。ごめんね省吾クン」 「もういいよ、谷口」  田端の声が詰まった。田端は黒縁の眼鏡を外して、鼻の根本をぎゅっと摘んだ。そのままその手に寄り掛かるように、田端は俯いた。 「……ありがとう、谷口。これでもう、君のこと忘れる」 「うん。誰かいいひと見付けて。みんなに祝福される結婚をして、幸せになりなよ」  ボクの分もね。郁也は最後に笑ってそう付け足した。田端は素直に頷いた。 「お、どうした田端」  松山がカップを持って戻って来た。 「うーん、何だか、目が疲れて」  昨夜ゲームやり過ぎたかなあ。「DF」の最新版ダウンロードしたら、はまっちゃって。あ、お前あれ始めたの、どうよ。ああ。システムは悪くない。シナリオはどうかな、まだ始めたばっかりだから。いいなあ。俺もやろっかな。でも容量大き過ぎて、一気に重くなったよ。ああ、それがなあ。  松山は何かを察したのか軽い話題を田端と遣り取りする。  郁也は学食の窓から外を見た。  風にそよぐ木々の枝に、若芽が育っている。  もうじき佑輔がやって来る。  田端の前で自分が佑輔に甘い顔をしてしまうのは酷だ。だが、それを見たくないなら田端が席を立てばいい。田端に気を遣って自分の気持ちを偽るのは田端に対して失礼だし、そうする正当な理由がない。  ひとを好きになってそのひとを選ぶというのは、そういうことだ。  無人島でふたりで暮らすのでなければ、絶えず他の誰かとの接触がある。そうしたリスクは避けられない。   だから、郁也は気を付けようと思う。  男のコたちに対しては、自分はもう大した影響力がないだろう。  今度は女のコたちだ。  これまで接したこともないだけに、どうして良いか分からないが。だが、何とかやって行かなければならない。  須藤の絶望。烏飼の絶望。この田端の絶望。そして、かつての郁也の絶望。  ひとは何かを望みながら生きて行く生きものだ。  ひとの望みが全て叶うものでない以上、絶たれる望みも数多ある。  だが、生きて行く限り。  ひとはまた何かを望んで一日を生きて行く。  命が尽きるその日まで。 「ああ、腹減ったー」 「お、やっと来たな、瀬川」 「おう、今の講義なかなか終わらなくて。長っ尻の行木って呼ばれてんだって、蔭で」 「お疲れさま。何食べる?」 「何食うかな」  眩しそうに自分と佑輔を眺める田端の視線を感じながら、郁也は佑輔と連れ立って出食口に並ぶ。佑輔は何か感じただろうか。 「佑輔クン、あのね……」  郁也が言い掛けると、聞き漏らすまいと佑輔は郁也の口許に耳を寄せる。いつものことだ。いつも佑輔は郁也にこうしてくれる。  優しい佑輔。郁也のことを大好きな佑輔。郁也のたったひとつの希望。喜び。楽園。 (佑輔クン……)  郁也は一瞬目を閉じて、小さく小さくこう言った。 「……好きだよ」  佑輔はトレイを握り締めて「うん」と赤くなった。郁也が笑うと下を向いた。尚も郁也が笑うので、ふざけて郁也を蹴る真似をした。郁也がきゃあっと喜んでそれを避けると、「お前ら何遊んでんの。危ないからよしなさい」と松山がしかめ面でたしなめた。  この幸せな日々が、一日でも永く続きますように。  そして親切にしてくれたひとびとが、皆この幸せに巡り会えますように。  ありがとう。    お父さん。  毎日空が真っ青です。  今日もボクは、幸せでした。  生まれて来て、本当に、良かった。  ボクをこの世に生み出してくれて、この身体で生み出してくれて。  お父さん。  本当に、ありがとう。  大好きだよ。  それでは、また会える日を楽しみに。                              郁也  P.S. 北海道も、もうすぐ夏です。  
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