1、ネープルスイエローの午後-6

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1、ネープルスイエローの午後-6

 明日が入学式という日の午後。ふたりは会場に下見に出掛けた。  入試を受けに来た大学の構内から、地下鉄駅にして二、三駅離れた会場は、この都会に慣れないふたりにとって未知な場所であった。 「郁ってば、寝起き悪いからどーせギリだろう。それが乗り換え間違えたりした日には、目も当てられないからな」 「ひっどーい。何それ」  ふたりは実家に届いていた案内の書類を握り、地下鉄の切符を買った。  ゆったりした緑の中に、背の高い建物が幾つも並ぶ。都会の真ん中に位置する割にそこは閑静な場所であった。  きょろきょろと辺りを見回す。会場では今日、別のイベントが進行中で、中には入れない。 「おーい。瀬川ー。谷口」  聞き慣れた声がした。振り返ると、走り寄って来たのは何とあの松山だった。 「おう、元気か」 「元気か、じゃないよ。お前らも下見に来たのか? そんならそうと言ってくれれば」 「ああ。こいつ、寝起き最悪だからな。当日迷ってると遅れちまう」 「まだ言うか」  郁也は佑輔の脇腹を拳で殴るジェスチャーをして、松山に向き直った。 「何だか久し振りな感じがする。まだ何週間も経ってないのに」 「そうだな。相変わらずカワイイな、お前は」 「な、何を言い出すんだよ」 「いや、今更そう照れなくても」  松山はふたりの出身校、東栄学院の同級生である。選択科目決定済みである高等部では三年間クラス替えがない。よって彼らは三年間ずっと同じ教室で過ごして来た。  松山もこの後、大学へ行って見る予定だと言った。明日は午前の入学式の後、入学手続きのため午後は大学へ向かうことになっている。郁也と佑輔も一緒に行くことにした。 「じゃ、こっちだよ」  松山は先に立って歩き始めた。 「地下鉄じゃないの?」  郁也は訊いた。 「ああ。大した距離じゃないって。明日は混むだろう。歩いた方が早い」  ヒールのある靴で来るんなら別だけど、と松山は意味ありげな目を郁也に向けた。郁也は赤くなった。 「松山、お前いつからこっちにいたんだ?」 「ああ。ひい、ふう、……四日前かな」 「『ひい、ふう』って」 「お前ら、部屋どこにしたの?」  松山は自分はあの辺に決めたんだけど、と大学から東に一キロ程度の町名を挙げた。 「学生が結構住んでるからさ。安い物件が多くて、選ぶの超メンドーだった」  買い物は便利なんだけどさ、治安はいまいちみたいで、それで場所の割に安いんだよ、とのことだ。  会場のある界隈から駅の西側へ差し掛かる。交通量も増えて空気が悪い。郁也はこほんと咳をした。佑輔が心配そうな目を向けた。 「瀬川は? 寮に入ったのか」 「いや。普通のアパート」  佑輔が町名を言うと、松山は「聞いたことないな」と首を捻った。 「遠いのか」 「いや、近いよ。地下鉄だと乗り換えが必要だけど、歩ける距離なんだ」  丁度大学の裏手をちょっと行ったとこ、と佑輔は説明した。学生は余り住まないようで、ひとり暮らしの学生向けの部屋探しガイドには確かに殆ど出て来ない。 「ふーん。谷口はどこにした?」 「え」  郁也は恥ずかしそうに目を伏せて、それから佑輔と目を見合わせた。松山はじろっとふたりを見た。佑輔が言った。 「俺たち、一緒に住むことにしたんだ」 「ええーっ!?」  松山は驚きに素っ頓狂な声を上げた。 「まさか、本当にか? よく親が許したな。何て言ったんだ」 「ウチはほら、貧乏だから。友達と一緒に住むって言ったら渡りに船ってことで。まあ、所謂ルームシェアだよな」  佑輔は、自分の成績が二年の後半からぐんぐん回復して、地方で一番の大学に滑り込むことが出来たのは郁也のお蔭だと自分の親は感謝してるから、何の問題もない、寧ろ喜んでいるくらいだ、と松山に言った。  松山は何だか釈然としない表情で首を振った。最も肝腎な部分を隠蔽していると思ったか。 「谷口んとこは」 「ボクの方は、とっくに。彼は母のお気に入りだから」  郁也は佑輔を小さく指差して言った。 「父にはまだ言ってないけど」と付け足すと、松山は「オヤジさんは反対しないか?」と気遣った。 「一応、『好きなひとが出来た』ってだけ、メールした」 「メール?」 「こいつん家、オヤジさんアメリカなんだ。滅多に帰って来ない」  松山は「ふーん」と肩を竦めた。 「仲のよろしいこって」 「あはは。まあそう妬くな」  松山としては、郁也が幸せそうに笑っていられるなら何の文句もない。  かつて郁也が「事故」を起こしたとき、怒りの余り佑輔を殴った松山は、佑輔にもう一度チャンスを許した。チャンスはもう一度だけ。その約束が保持されているか、松山は自分には監視する義務があると思っているようだった。  途中、絵ハガキなどでよく見る赤レンガ造りの建物の脇を通り、確かにあっさりと大学に着いた。佑輔の農学部の校舎を通り過ぎ、三人は理学部の校舎の位置を確認した。時計確認。所要時間も分かった。 「じゃ明日な。あ、そうだ。谷口、ケータイ教えといてくれよ。俺たち同じ理学部だろ」  松山は故意と佑輔を横目でちらっと見て郁也を手招きした。ふざけて佑輔を挑発する松山に、郁也は笑ってケータイを差し出した。 「これからも、よろしくな」 「こちらこそ」  郁也の事情を知ってくれる友人が、近くにいるのは心強い。郁也は松山に心から「よろしく」と言った。  郁也は少し考えて、緑色のネクタイを選んだ。  学院を卒業して、淳子は郁也にスーツを新調してくれた。郁也の細い身体に合わせて、明るめのグレーの生地を三つ釦で仕立てた。  仕上がりを着て見せた郁也に、可愛らしいと淳子はにっこり何度か頷いた。これなら濃色の二つ釦を着るよりは痩せて見えない。それに合わせてネクタイも二本。プレッピーみたいな赤と、落ち着いた緑系だった。  佑輔は紺のスーツに、郁也の予想通り赤のネクタイを合わせた。ふたり揃って似た色のタイを締めるのは、幾ら何でもちょっと照れる。  スーツとスーツじゃ、今日は手を繋げない。郁也は佑輔と肩がぶつかり合わないように距離を取って会場へ向かった。 「天気好くて、よかったな」 「うん。でも風強いね。着く頃にはライオンのたてがみみたいになってそう」 「そういうもんか」 「うん。いいね、佑輔クンは短くて」  風に煽られる髪を押さえる郁也の視界に、何かふわりとしたものが飛んだ。 「あ、あれ」 「よっと」  佑輔が長身を伸ばしてそれを掴み取った。大した反射神経だ。郁也はうっとり彼を見つめてしまわないように、佑輔の手の中の物に注意を向けた。 「何だ」 「スカーフじゃない、かな」  ふたりは周囲を見回した。慣れないヒールでギクシャク走って来るソフトイエローのスーツがあった。 「ありがとう!」   助かったあ、と佑輔からスカーフを受け取ったそのコは、メリハリなく細身の身体にショートボブはややうねった感じで、多分もともと癖があるのだろう、化粧っ気のない幼い感じの女のコだった。  郁也は「気をつけて」とひと声掛けて、佑輔とまた歩き出した。  ソフトイエローの洋服に合わせた、黄色い縁取りのスカーフ。縁の内側は紺と金色で、縁取りを見せなければちょっと暗い感じになる。  今見たコの子供っぽい感じとそのスカーフは、微妙に違和感のある取り合わせだった。郁也は少し気になって後ろを振り返った。  思った通り、さっきのコはスカーフを結び直すのに苦労していた。こうしたものを使い慣れていても、この風の中では難しいだろう。まして慣れていなければ。 「あ。ヤバっ。あっ」などと下を向いて歩きながら何度もチャレンジしている女のコに、見かねて郁也は手を差し出した。 「貸して御覧よ」  そのコはきょとんとして郁也を見上げ、次の瞬間頬を染めた。  植え込みの縁にそのコを座らせ、郁也はスカーフの折り目を調べた。佑輔も郁也の手許を覗き込んだ。 「ここと、ここと……」 「お、これもじゃないか。これが山折り」  郁也は顔を上げ、そのコに「これを結んでくれたのは、お母さん?」と聞いた。 「い、いいえ。自分で本を見て」 「やっぱりね」  郁也は軽く溜息を吐いて、「ちょっと顎上げて」とそのコに命令した。彼女が言う通りにすると、「御免ね」と断って、郁也はその首にスカーフを巻き付けた。    細かい襞を寄せて畳むように仕上げた折り方だったが、敢えて襞を省略して、その分力を入れて結び目を固くした。 「はい」 「あ、ありがとうございます」  身体を硬くして郁也に礼を言う女のコに、ちらっと一瞬白い歯を見せて、郁也はそれきり振り返らず植え込みを後にした。 「随分親切だな。どうしたんだ」  佑輔が驚いている。 「別に」  郁也は涼しい顔だ。 「学院で、松山君や矢口君、みんなに、沢山親切にして貰ったから。親切ってこういうものだって、ちょっとだけ分かったような気がするんだ」  郁也はにこっと笑って「自分が幸せだと、ひとにも優しく出来るのかもね」と佑輔を見た。もう感情を出し惜しみしない。そう郁也は決めていた。  佑輔は腕を上げて郁也の髪をくしゃっと撫でた。抱き寄せたように見えない距離で、ふたりはすっと身体を離した。
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