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1、ネープルスイエローの午後-8
「ただいま……っと」
郁也と佑輔は早々に部屋に戻って来た。明日から本格的に講義が始まる。部屋の片付けに区切りを付けてしまいたかった。
「あ、メール来てる」
郁也はケータイを開いて見た。佑輔は郁也の脱いだコートを受け取り、奥の部屋へ掛けに行った。
「……お父さん!」
郁也は真っ青になった。
「どした。オヤジさん、何だって」
「どうしよう。お父さん、ここに来るって」
佑輔は部屋のストーブを点けてその前に陣取り、のんびり「いつ?」と郁也を見上げる。
「今」
「今?」
郁也はケータイの画面を佑輔に見せた。
(郁也。メール拝見しました。君が幸せに暮らしていることは、父にとっても大きな幸せです。休みが取れましたので日本に帰って来ました。淳子さんのところへ行く前に寄ります。千歳に着いたらまた連絡します)
父からのメールは日本語だった。
「発信は、今日の十二時前か。こりゃ成田だな」
「ねえ佑輔クン、どうしよう。どうしたらいい?」
「どうしたらって。掃除でもして待ってようぜ」
郁はいつもキレイにしてるから、今更掃除するところもないな、と佑輔は食器棚を覗いた。
「茶菓子くらい、俺買って来ようか」
「そうじゃなくて!」
郁也はそう叫んで泣きそうな顔をした。佑輔は狼狽える郁也の肩を掴んだ。
「落ち着けよ。何が問題なんだ」
「何って」
郁也は信じられないという目で佑輔を見た。
「何って……」
郁也は佑輔の肩に凭れた。
「ボク、どうしたらいいの」
そう言った郁也の声は湿っていた。佑輔は慌てて郁也の顔を覗き込んだ。郁也の目から涙が溢れた。
「俺、オヤジさんに、言わなきゃならないことがあったんだ。だから丁度良かったよ」
佑輔の指に頬の涙を掬い取られて、郁也はふっと瞼を閉じた。
「……どうして日本語なんだろう」
きっと、郁也の傍らにいる誰かにも、このメールは宛てられているからだ。いつも端的で明快な父の言葉。日本語になってもそれは変わらなかった。
(お父さん……)
佑輔の胸に抱かれ髪を撫でられていると、郁也は少し落ち着いて来た。
「佑輔クン」
「ん?」
「ウチの父は決して無理解な方じゃないけど、普通のおじさんだから、許して貰えるかどうか分からないよ」
「うん」
「もしかして佑輔クンに酷いこと言うかも」
「分かってるよ」
「でも。父が何と言っても何をしても、ボクの気持ちは変わらないから」
「郁」
「ボクをここから追い出さないでね」
佑輔は郁也のその真剣な物謂いにぷっと吹き出した。
「何だよぉ」
「『追い出す』って、郁のお袋さんがここの家賃払ってるんだぜ。出てくとしたら俺の方だろう」
「分かんないよ。淳子サンすっかり佑輔クンのこと気に入ってるもん。それに淳子サンはお父さんの言うなりだから心配なんだ」
「仲良さそうだもんな、郁ん家のご両親」
だからこんなに素直で可愛いコが育つんだな。佑輔はそう言って郁也の頬を指の背で撫でた。
(何か不思議だ。ボクの方がいつも佑輔クンのことそう思ってた)
郁也は目を伏せた。
ふたりはいつしか互いの身体をぴったり触れ合わせていることに気が付いた。照れ臭くなってそっと身体を離した。
「あ、じゃあ俺せめて茶菓子でも買って来る」
「いいよ」
「いや、でも」
「いいから。側にいてよ」
「……そう、か。なら」
佑輔は落ち付かな気に座り込んだ。郁也はのろのろと薬缶を火に掛けた。温かいものを飲めばリラックス出来るかと思った。佑輔は時計を見た。
「ちょっと遅くないか、お前のオヤジさん。そのメールの後空港でメシ食ったとしても、幾ら何でももう着いてないか」
三時を過ぎていた。成田から羽田へ移動したとしても、もう千歳に着いている頃だ。
気が変わって母のところへ真っ直ぐ向かったのかも、と郁也は淡い期待を抱いた。
郁也は父が好きだった。会いたくない訳ではない。だが、今このシチュエーションで顔を合わせたくない。佑輔を傷付けるような言動を取られたくない。
郁也のケータイが鳴った。郁也はびくっと肩を震わせた。郁也は相手を確認した。父だ。
佑輔がゆっくり頷いた。郁也は恐る恐る電話に出た。
「Hello. Dad」
(もしもし、お父さん)
「Hi! Ikuya. How are you doing?」
(やあ、郁也。調子はどうだね)
「Average. And you?」
(まあまあだよ。お父さんは)
「Oh! Very fine! It's so nice the Japanese weather, especially Spring.」
(絶好調だね。日本の春の天候ってのは、いいもんだ)
「Ah, Dad, where are you, now?」
(ああ、お父さん、今どこにいるの)
「I'm at the subway station nearest your apartment. I heard about your new address from Junko, so I could get to there. But I forgot to ask her your room number.」
(君のアパートの最寄りの地下鉄駅だよ。淳子さんから君の新しい住所は聞いたので、君のところまで辿り着けると思うんだが、君のルームナンバーを聞くのを忘れてね)
父はそう言ってあははと笑った。
郁也はああ、じゃあ駅まで迎えに行きますから、そこにそのままいて下さいと英語で言って通話を切った。
受験英語は克服しても会話スピードの英語には従いて行けない佑輔が、じっと郁也を見守っていた。郁也は唇をぎゅっと引き締めた。
「もう地下鉄の駅まで来てるって。住所は分かってるけど何号室か聞くの忘れたっていうから、そのまま駅にいてって頼んだ。迎えに行くからって」
じゃ、ボク行って来る。そう言った郁也の膝は情けないことにかたかた震えていた。
佑輔は奥の部屋からコートをふたり分持って来た。
「行こう」
「佑輔クン」
「そんな郁をひとりでなんか行かせられないよ」
初対面が駅でなら、そう頭ごなしなことも言われないだろ。佑輔はそう言ってバスケットシューズの紐を結んだ。
(そう、だね。そうかもね)
郁也は部屋に鍵を掛けた。
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