変わらないもの

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 ひび割れたアスファルトの隙間から、何かの小さな芽が顔をだしている。  それが、まりえの見た最初のものだった。それ以前の記憶は途切れている。自分が今いる場所がどこかもわからない。   エンジンと排気管の奏でる轟音。  横倒しになった視界を、絶え間なく車が行き来している。その振動が、全身に伝わってくる。  ぼんやり眺めていたら、トラックのタイヤに芽は続けざまに踏まれた。踏まれたけれど、トラックが通り過ぎるとまた立ち上がった。  頭が重い。  指先の感覚が遠い。  世界と自分の間に、薄い鈍色の膜があるかのようだ。胃のあたりで、ちりちりとなにかが燃えている。その熱さが、急激に吐き気にかわる。  まりえは身をこわばらせた。上から声が降ってきた。 「目が覚めたか。吐き気があるなら吐け。吐かねば、命にかかわるかもしれない」  知らない男の声だった。自分が、頭を男の膝の上にのせていることに気づいた。   反射的に跳ね起きようとした。身体を起こそうとすると、視界が激しく揺れた。まりえの意思とは無関係に、胃から何かがせりあがってきて、鼻と口からあふれ出した。  アスファルトの地面の上に、地面についた自分の手の上に、座ったままの男の膝の上に、吐しゃ物が噴きだしてきて跳ねた。悪臭の中で涙を流しながら、まりえは起き上がることができなかった。ぜえぜえと苦しい呼吸を繰り返すしかなかった。知らない男の手が背中をさする。 「酒に、何か混ぜられたのではないか。変な味がしなかったか?」 「わかんない……です。お酒……初めてで……」  まりえは思い出した。  今は、大学に入ったばかりの四月であった。  麗奈と二人で繁華街を探検に行った。二人とも田舎から出てきたばかりで、都会のことを何も知らなかった。  知らない男二人連れにナンパされ、強引にバーに連れ込まれた。いろんなお酒を無理やり飲まされた。逃げ出したかったけれど、どうすればいいのかわからなかった。  ほとんど自力で歩けない状態で、夜の街に連れ出されたまでは憶えている。 「あなたが、助けてくれたんですか。麗奈は……麗奈はどこですか!」 「可哀想だが、私が見たのはあなたと若い男の二人だけだ。特に何かしたわけではない。男が勝手に逃げて行っただけだ」 「ごめんなさい、服、汚してしまって」 「気にするな」 「預からせて下さい。お洗濯して返します」  まりえが言うと、男は笑った。 「私が何者に見えるのかね」 「え」  季節外れの分厚い、しかしボロボロのダウン。もとが何色かわからないくらい汚れている。膝のぬけたジーンズ。左足にゴム長靴。右足にスニーカー。顔も手も黒い。日焼けなのか汚れなのかわからない。もじゃもじゃのひげ。レンズの汚れた、片方がひどくひび割れたメガネ。  ホームレス以外の何者にも見えなかった。  そう気づいた瞬間、自分がどんな表情をしたのか、まりえにはわからなかった。  しかしホームレスの茶色い明るい瞳はかすかに陰り、下を向いた。 「ごめんなさい」  そう言って、距離をおいて座りなおした。 「気にするな」  そして男は、そのときはただのホームレスにしか見えなかった男は、こう言った。 「私は、ただここにいるだけの者だ」  まりえはずっと後になるまで、その言葉の意味を考えなかった。 「病院に行くといい。睡眠薬か、あるいはもっとタチの悪いものが使われた可能性がある」 「……どうして助けてくれたんですか」 「私は何もしていない。ただここにいるだけだ」  男はそう言った。 「夜のこの街は危険だ。不用意に近づかぬことだ」
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