情景ハイライト

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 いつも父の作業着のポケットに入っていた煙草があった。  父が俺の前でそれを吸うことは、最期までなかったのだが。  子どもの泣き声が聞こえる。  目の前を次々と流れていく人の波を見ている。これは、俺が五歳の頃の情景だ。  祭囃子。焼きそばやお好み焼きのソースの匂い。りんご飴の赤い艶。真夏の夜の、肌にはりつく熱気。俺をわくわくさせていたすべてが、今はただ一人の心細さに拍車をかけた。  祭囃子に紛れて、ずっとどこかで子どもの泣き声がしている。まだちいさい子の声だ。きっと迷子なのだろう。懸命に誰かを呼ぶようなその泣き声を聞いているうちに、胸がざわざわと苦しくなってくる。  誰か、はやく、あの子を見つけて。 「──唯太(ゆいた)!」  ハッと顔を上げる。  人波をかき分けながらこちらへ駆け寄ってくる父の姿を見つけて、俺は、ずっと握りしめていたりんご飴を思わず地面に落としてしまった。 「よかった、やっと見つけた」  ごめんな、父さんはぐれちゃったな、とどうしてか父は謝りながら、めいっぱいの笑顔で俺を抱き上げた。そして、俺をしっかりと腕に抱いて歩き出す。  背の高い父に抱き上げられたら、祭の光景が隅々まで見渡せた。けれど、俺が落としたりんご飴はすっかり人波で隠れされて、もうどこにも見えない。 「唯太はえらいなぁ。一人でも泣かないで」  とうさん、ごめん。買ってもらったりんご飴、おとしちゃった。  父のやさしい声を聞きながら、言わなきゃ、と思う言葉がいつまでも喉のところでとどまっていた。目の奥がじんと熱い。それを我慢するので精一杯で、りんご飴のことはもうとても言えそうになかった。 「でもなぁ、父さんちょっと心配だな。唯太はぜんぜん泣かないから、父さん、唯太のこと見つけるのも大変だ」  笑いながら歩く父の体にはハイライトの匂いが染みついている。あの水色の煙草の匂いだ。父がそれを吸っている姿を俺はこの目で見たことがなかったが、仕事から帰ってきた父に母はいつも「職場でも少しは控えてね」と小言を口にしていた。だから、なんとなく、「父さんが煙草を吸っているところが見たい」とは言えなかった。  神社の入り口で母と妹と合流した頃には、そういえばもうあの子どもの泣き声は聞こえなくなっていた。誰かがあの子を見つけたのか。それとも、聞こえなくなるくらい俺が遠くまで来たのか。
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