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まだ起きてるなら、返事しろ。スーツだけは脱げ、越後屋…越後屋…
鼻をくすぐられて、頬をつねられ、最後は耳のすぐそばで声を張り上げられて、やっと起き上がり引っ張られる方に従ってジャケットが体から剥ぎ取られていく。
スーツだけは、と言われた気がするけれど、足が冷たくなったので、靴下を脱がせてもらったのだとわかる。
またベッドに沈んだ俺は、海君の匂いが染み付いた枕を抱き込んでそれを堪能している。
起きてる?
また海君の声がして、肩が温かく感じられた時。俺は枕を手放して…手放して…。
朝、起きると海君の枕に顔を埋めてうつ伏せで寝ていた。日はもう高い。毛布をかぶると、それまで海君の匂いがする。脱ぎ忘れたスーツのパンツはなく、俺の足は毛布に直接当たる部分が多くて、その感触が気持ち良くて、もぞもぞと足を動かしていた。
そうしていると、腰の下に痺れを感じてきて、そこに手を伸ばす。枕元にティッシュがあるかを確認して。
ごめん…海君…
そう呟いて、頭の中で海君を思い浮かべた。体の軽さと、キスする感触と、触った腰回りのかたさがやけにリアルだった。
ま、て、よ。
何度もってなんだ。俺、酔った勢いに任せて、何度も?海君になんかしたか?ちょうど「必要な部分」が覚えていない。それがあるのか、ないのか。
海君に怒られ、合鍵はポストに入れておけと言われて。翌日、すでに海君のいない部屋のポストに鍵を落とした。
クリスマスが終わり、31日に一本締めをして、2日間だけ休み。その間にも海君とは連絡が付かないまま、時間が過ぎていく。彼を失った俺は職場とマンションを往復する2本足の生物なだけだった。深酒の会にもしばらく行っていない。
濃い青の。目を凝らして模様を見てしまうような、柄は大きいながらも、繊細な織り方をしたネクタイをした、ロマンスグレーの頭髪をした男が、売り場をうろうろとしているのを見たのは、そんな頃だった。
「なにかお探しですか?」
通りかかった俺は、ブランドの販売員が他の接客で手が回らないのか、腕を組んでネクタイをずっと見ている客に声をかけた。
「プレゼントを探しているんですけれど、なにがいいかわからなくなってしまって…」
お買い物の沼から出てこられない客の、苦しみは深い。プレゼントならなおさら。俺は10分考えて選べなかったら、早々に今度にするか、店員に聞くかをおすすめしている。
「よろしければ、他にもブランドはありますし、ご案内しますよ。プレゼントを贈る方の、年齢とか…お仕事とか…好みのお色とか教えて頂けますか?」
「年は36歳。仕事は…わからないな…服装はモノトーンが好きみたいだったな…」
ネクタイを見ていたから男性なのだろう。
「息子さんですか…ね…」
多分、娘の夫だろう。それでもこう言っておけば、違うなら訂正をしてくる。
「いえ…年の離れた友人というか…」
あ、この客、変態と変わり者の境い目にいるなと直感する。
平日の16時に、きちんとした生地のスーツにネクタイ、コートも長く着ていそうだけれど良いものだ。物腰がやわらかくて、高圧的でない。つまり、販売員に当たるようなストレスがない。
まずまずの会社に勤めているけど、役職はなく、家庭もない。自分のために生きてるタイプだ…きっと。
ならばと、シンプルなデザインが売りの若向けのブランドに案内をした。そちらの販売員に事情を話して引き継ぐと、濃青のネクタイの男は物腰やわらかに商品を選び始める。
お客様に余裕があると、こちらも接客がしやすい。
胸ポケットの携帯がブーブーと鳴り、お客様対応をお願いしますと焦った声がする。俺は反対を向いてそちらに急いだ。
クレーム対応を終えて、売り場を見て回っているとあの男性客がうちの紙袋を下げて歩いている。時間がかかったみたいだけれど、ちゃんとプレゼントが手に入って良かった。貼り付けたようだと言われる笑顔を、本物の笑顔にして、ありがとうございます、とお辞儀をする。
男は、俺がさっきの店員だと気付くと近付いてきて、さっきはどうもと頭まで下げる。
「プレゼント、お陰様で買えました。彼、名前に海が付くと店員さんにお話ししたら、きれいなコバルトブルーのハンカチをタイプを変えて2枚セットにしてくれました」
「それは…良かったですね」
海の付く名前なんて、偶然もあるもんだ。
「今度、渡すのが楽しみです。食事もと、先に誘ったけれど、断られてしまって…なんでも?越後屋さんという方が、いいと言ってくれないと。まだ、だめなんだそうです」
男は銀座に行くと、足取り軽く、ご機嫌で売り場を去って行った。
お酒を飲んで、遊んで楽しむわけじゃないんだろうな。きっと、1人であの、海君からよく聞く劇場に行くのだろう。
海君、あんなおじさんにはなるなよと、俺はその背中に軽く手を合わせた。
そしてまた、あの日の記憶を手繰り寄せる。肩に海君の手が添えられて、それから…それから…。
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