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■ 洛外 山中
「もおー、待ってよ、まお」
「あはは、もう疲れたか、ちえ」
「馬鹿じゃないの。こんな山ん中、どうやったらまともに歩けるのよ!」
「ほら、ちえ。手を貸してやるから早く登ってこい」
「体力馬鹿」
「あはははは」
まおと呼ばれたのは佐伯眞魚(さえきのまお)という青年で、讃岐の国から14歳で平安の都に上京してきたいわゆる寄宿生だった。18歳で大学寮に入ったもののすぐに飽きて、19歳になった今は山林修業と公言して奈良の山中を歩き回っていた。
「ちえ、おじさんはなんて?」
「文にも書いてあったでしょー。戻ってこいって。読んでないの?」
「さっき渡されたあれか?どっか飛ばされた」
「飛ばされた?うそ。鼻でもかんじゃったんじゃないの」
「ちえにうそはつけないなー」
「おおばかね」
ちえは二つ下のいとこで、去年俺をたよって上京してきた。里にいたおなご衆のなかでずば抜けて闊達で、聡明ながら一途なところがあって、親兄弟は手をやいたらしい。それで里では唯一仲の良かった俺に押し付けてきたというのが本当のところらしいのだが、本人はいたって平気なふうで、むしろ頑なな因習に凝り固まった里から逃げ出して喜んでいる。
「ていうかいい加減おなか減ったんですけど」
「なんにも食べてこなかったのか?」
「おじさんが急げっていうから」
やれやれ山中に入るのに、食い物も持たずに来るなんて、どんだけあとさき考えない性急な娘なんだ。もっとも、思えばそんなこんなで里も出てきたんだっけ。
「あははは。わかったわかった」
「なによ」
「ほら、これくえ」
渡したのは椎の葉に幾重にも包んだもの。
「なによこれ」
「いいから包みをほどいて食え」
歩きながらで悪いが、急がなきゃならないようだ。すぐ日が暮れるしおじさんも急いでいるようだ。
ちえは山道につまずきながらも、恐る恐る包みを開けると、「なんか酸っぱいにおいね」と顔をしかめた。だけど一口食べると…。
「なにこれおいしいー」
「だろ。蒜を梅酢と蜂の蜜で漬けたものだ」
どこでも生えるノビルを、梅を塩漬けにしたときに出る汁と蜂蜜に漬けておいた。すりつぶし焼いた雑穀でできた餅と一緒に食べる。
「餅になんか塗ってある?」
「よく気がついたな。蒸して塩漬けした豆をねかし、頃合をみてすり潰して搾り取ったもののかすをさらにねかしたものだ」
この時代、『醤』(ひしお)という発酵調味料が各種つくられるようになっていた。これは『醤』から派生した現代の『味噌』の原型である。
「ふーん」
ちえは感心しながらもぼりぼりよく食べた。よっぽど腹が減っていたんだろう。
家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
「なにそれ」
「むかし謀反の罪で捕まった、有間という皇子が詠んだ」
「へー」
「家で幸せにめし食ってたのに、いまじゃ捕まってこんな器でって。俺の心境」
「捕まってって、それってあたしにってことーっ?」
「あ、ははははは」
飛鳥時代、孝徳天皇の息子として生まれた有間皇子は、政争に敗れ謀反の罪で死罪となった。まおと同じ歳だったという。
「おじさんにもあんまり心配かけられないから、早く戻ろう」
「おかわりー」
「ありませんっ」
山道を急ぎながらふたりは下った。まおの背負う背籠には山で採れた草や木の実がずっしりと詰まり、それはまわりにかなりな異臭を放っていた。
「なんかくさい」
後ろを歩いていたちえは鼻をつまんで文句を言うので、俺は笑いながら戯歌を向けてやった。
ふりかえる なんごとやにぞ はずかしく われめもあけれじ はなつむおとめ
「ひどいっ。それっておしっこしてるってことじゃない。なんてこと言ってんのよ。おじさんに言いつけるからねっ。もーぜったいゆるさない」
「あははは。怒るな」
「死ね」
山にもう陽は傾いていた。
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