序章:旅立ちの日

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「もういいよ、僕は死ぬまえに生きたい」  僕がなによりも自由を渇望するまでに、そう時間はかからなかった。  僕は決意した。この家を出ようと。  外に出たあとはどうしようか。  農業で自給自足? あ、やり方がわかんない。  働く?働くってなにするの? わかんない。  遊ぶ? ブランコでもこぐ? あはは、僕ってなんにもわかんないんだね。  でもひとつだけわかるかも。 「生きたあとなら死んでもいい」  そもそも「生きる」ってなんだろうねだけど、少なくともいまの生活のことは指さないはず。いまの僕って、生きてるのか死んでるのかホントにわかんないもんね。  そういえば隣の部屋から聞こえる声は豚の鳴き声だけじゃなかったな。 「おカネがないからカジノに行けない……、そろそろカジノに行かないと死んでしまう」  そう母に泣きつく小間使いの声もたまに聞こえてた。カジノに行けば僕も生きれるのかも。  僕は小間使いのお兄さんに感謝した。外でまずすることがわかった、ありがとう。  あと外に出る手段も閃いた、ありがとう。  お兄さんは家でいちばん僕に優しくしてくれた。  昔からご飯を運ぶついでに話を聞いてくれたり、こっそり流行りの書物を貸してくれたり。あの懲罰房のような部屋で過ごした期間に、いちばんそれを気にかけてくれた。  だから今回も力になってくれるだろう。  利用されてくれるだろう。  作戦の直前、僕は母の寝室に忍びこみ財布をちょろまかすと袖のなかにしまい込んだ。  僕のポケットマネーは衛兵を買収するのに全て使っちゃったから。  さあ、作戦開始だ。  僕はお兄さんに話しかけた。 「僕と一杯付き合ってほしい、たまには外の酒場で新鮮な空気を吸いながら誰かと話がしてみたいんだ。」 「いいですが、どんな話を?」 「う〜ん、少なくとも、となりの部屋のベッドがきしむ音が聞こえるような部屋ではできない話、ではあるね」  お兄さんは苦笑すると承諾してくれた。  僕はなるべく小さな酒場を選んだ。どうせ借りきって出入り口を衛兵に防がせるから他の客を追い出す手間を省きたい、というとお兄さんは特に疑わなかった。  建物が小さいと、トイレが外になるからとは言わなかった。  僕とお兄さんはしばらく他愛もない話で盛り上がった。母の年々変わりゆく性癖の話は笑った。  カジノの話題を振ると、お兄さんはせきを切ったように熱弁しだした。  そんな時間を過ごしながら、僕は折を見て切り出した。 「お兄さんはいつも僕に優しくしてくれたよね。学校の悩み、家族の悩み、いろんな話を真摯に聞いてくれた。 もしかしたら、ほんとうのお父さんって……?」  お兄さんは答えてくれた。 「そうかもしれないって、思いますよね。ですが、それはないです。  坊ちゃまの瞳はブルーですが、私の瞳はとび色です。とび色の瞳の親からブルーの瞳の子供が生まれないことはお勉強されたはずです。」  よかった、お兄さんがお父さんじゃなくて。  これから死ぬまで拷問されるひとが、実の父親じゃなくて。  僕はお兄さんにトイレに行ってくる旨を伝えると、店を出てそのまま街へと繰り出した。  異変に気づいたお兄さんが慌てて店を飛び出そうとしたところを衛兵に取り押さえられた。  僕が衛兵に通していた話はこうだ。 「まず、僕は小間使いに屋敷の外での密談の段取りを頼まれた。  そうしたら、小間使いに僕の実の父親は小間使いである話を繰り広げられ、共謀し家を乗っ取る画策を持ちかけられた。  身の危険を感じた僕は隙をついて逃げ出し、聞く耳を立てていた衛兵はその身柄を拘束した」  そう口裏を合わせるため、またその後の僕の捜索もそこそこにしてもらうために僕はポケットマネーを全て衛兵に投げうった。  ごめんねお兄さん、お兄さんはこれから洗いざらい白状することを迫られそして本当のことを話しているあいだは絶えず地獄の責め苦に遭うと思う。  父が納得する話が、体裁を保てる話がお兄さんの口から飛び出すまで、お兄さんがそう機転をきかせるまでは、この世の苦しみから解き放ってはもらえないと思う。  少なくとも、生きながらえることは絶望のなかで諦めざるをえなくなると思う。  ねぇお兄さん、知ってる? 父はね、面白い靴を持ってるんだよ。その靴は膝下まである長靴で、鉄でできていて、なぜかひとつの靴に両脚を入れるんだ。  それからね、両脚のあいだに衛兵さんがくさびをハンマーでいっぱいいっぱい打ちこむの。そしたらさ、お兄さんの両脚の骨が砕けて肉が皮膚から飛び出しちゃうんだよ。  楽しそうでしょ? でもって本番はそこからなんだ。  潰され砕けたその脚に、父は回復薬をかけるんだよ。くさびが打ち込まれたままね。  かけられた脚は、回復しながら砕けていくの。薬の効果が切れるまで。  その地獄は終わらない。なにせ父の薬だもん。薬なんて、読んで字のごとく売るほどあるよ。  薬に混ぜものをした行商人、部下に慕われた研究員、父のメイドの元婚約者。みんなみんな、最期はノコギリを持った父に、「ありがとうございます、ありがとうございます」って事切れるまで言い続けたよ。  言うのをやめたら、父がゆっくりと首をノコギリで斬る手を止めちゃうから。僕も聞きたかったな、お兄さんの人生最期の感謝の言葉。  でもお兄さんも悪いんだよ。  僕の弟や妹たちを何人殺したの。  いったい何人作っては暖炉の火にくべて灰にしたの。  たとえその指示を出したのは父だとしても、そうなることがわかったうえで母と何度も交わったのは他でもないお兄さんだよね。  だって、国の権威の奥さんに、間男とのあいだに設けた子供なんていていいわけないから。  お兄さんは、生きるために母を慰め、生きるために母と交わり、そして生きるために自分の血を引いて生まれた命たちを火にくべ灰にして消し続けた。  なら僕も同じ理由でお兄さんを殺してもいいよね。  生きるためだから、「死ぬまえに生きる」ためだから。
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