マットレスが死んだ

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「食堂、まじで人多いな。弱小大学のくせに」  片手にスタミナ丼のトレーを抱えたいとちゃんが、吐き捨てる、みたいに言った。「弱小大学」、言葉を反復する。私の、白身魚のフライ定食のトレーを持っていないほうの手が行き場を失っていた。 「テラス席行こうよ。あっちなら空いてるでしょ」  私の提案に、「ん」、いとちゃんが返事をする。ガラス張りの扉を開けた瞬間、彼女の三つ編みが大きく波を打った。外は、四月末という時期をそのまま体現したような気温をしていた。 「全員次元を落とせばいいと思うんだよ私は」 「そうすれば平面だもんね。スペースはできるかも」 「違えよ。二次元になれば少しは愛せるってこと」 「あー」  あー、じゃねえよ。いとちゃんが鼻息を荒くして言う。まるっこく縁取られた眼鏡の表面に日光が反射していて眩しかった。 「いとちゃんの眼鏡、レンズが反射して碇ゲンドウみたいになってる」  いとちゃんは低い声で「エヴァーに乗りなさい」と言った。「違うだろそれは」、意図せずして猿のようになってしまった笑い声の横を、見知った顔が通り過ぎていく。いとちゃんのレンズはまだ日光を反射していた。 「あ、新井。と、伊東」  横から、高橋が声を掛けてきた。「ん、おはよう」、手を挙げながら挨拶をする。いとちゃんはちいさく会釈するだけだった。 「新井。欧州文学の授業さ、先週の課題なんだったっけ」 「まだやってないの? 女遊びばっかりしてるからだよ」  高橋は、「うっせ」と口では言いながらも、嬉しそうに笑っていた。「女たらしの男」という属性を与えられたことに満足しているようだった。高橋はそのまま、喫煙所のほうへ歩いていった。 「男とばっかり喋りやがって」  高橋がビニールハウスのような喫煙所に吸い込まれていったあと、いとちゃんが顔をしかめてそう言った。「べつに」、私を貶める気がないとわかっているから無難な言葉を返す。 「いとちゃんも男と喋ればいいじゃん」 「陰キャだから無理だっての」  いとちゃんはよく自分のことを「陰キャ」と自称する。不名誉な称号であるにもかかわらず、彼女はそういう人間として生きることを是としているようだった。友達いない、彼氏もできない。嬉々として独り身を語るくせに、いとちゃんは世間的に定められた何かのカテゴリーに所属したがった。  初めて地球儀を見たとき、世界がひどく縮まったような気がした。世界は、地図に先行して存在してなどいなかった。論理的に考えれば「世界」があって初めて「地図」が生まれるのだろうけど、私はそうは思わない。世界を計測した結果地図が生まれるのではなく、地図があって初めて国境や国という概念が生まれるのではないだろうか。  この世に存在するものはすべて、世間の決めた属性のようなものに所属しているのだと思う。いとちゃんや高橋は、「陰キャ」や「女たらし」というひどくわかりやすい枠組みのなかに囚われているようだった。彼女らのための言葉は、そこになかった。ひとつの大きな括りのなかでしか生きていないようだった。ふたりとも、その一言では表せない部分がたしかに存在しているはずなのに。  いとちゃんにはきっと、私しか知らない側面がある。「陰キャ」や「オタク」という枠組みの外側で彼女を捉えてやることは私にしかできないことだった。そして、私には、自分たちが一定のカテゴライズのなかに収まりきらないことを訴えていく必要があるような気がしていた。  いとちゃんはスタミナ丼を器用に箸で掬いながら、タイムラインに流れている「推し」のつぶやきを必死にリツイートしている。彼女に倣って巡回したツイッターに飽き始めたころ、いとちゃんはゆっくりと顔を上げた。 「そろそろ行くわ。次、全学講義棟だから」 「はーい」 「新井も早く行けよ。もう休めないんだから」 「わかってるけど」  いとちゃんは得意げな笑みをこちらに向けてから、トレーを片手に食器返却口へと歩いていった。遠ざかっていく彼女の背中が、距離以上にどんどん小さくなっていっく。自動ドアが豆粒のような背中を覆い隠してから、ナプキンを持っているか訊き忘れたことに気づいた。血が、どばっと流れていくのを感じる。まだ漏れていないから、いますぐに買う必要はなさそうだった。
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