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「見ててね!」
高々と宣言して、彼女は海にばちゃんと飛び込んだ。
危ないよ。ぼくの声が水中の彼女に届くはずもなく、小さな影が──いや、出逢った頃よりは少し大きくなった影が、すいすいと水面を流れてゆく。
ぼくは歩いてあとを追いかけた。
彼女が勢いよく顔を上げる。ばっさり切った黒髪から水吹が舞って、彼女の小麦色に焼けた肌を伝い落ちていく。前髪をかき上げ、得意げな笑みを浮かべてぼくを見つめる。
その笑みが、水着の隙間からちらりと覗く白い素肌がまぶしくて、ぼくは思わず目を細める。
「あんまりぼくから離れるなよ。海は怖いから」
「えへ、ごめん。でも楽しいんだもん。きみのおかげでわたしも人魚になったみたい。やっぱりわたし、海が大好き」
彼女が小学五年生の夏のことだった。ぼくは中学一年生。地元の中学にももちろん馴染めなくて、夏と、たまに休日にも来てくれる彼女だけが、唯一の友だちだった。
「わたしに何かあったら、きみが助けてくれるでしょ」
やわらかい微笑み。
そこに、ゆっくりと影がさしていく。大きな瞳は潤んで、濡れた睫毛にあたらしいしずくが盛り上がる。
生まれてはじめて女の子に泣かれて、ぼくは戸惑った。
「……かえりたく、ないよぉ」
赤ちゃんみたいに彼女は泣いた。ぼくのうろこまみれの身体にすがって、ふるえながら泣いた。
夏の日射しで火照っていた身体から、熱が引いていく。ただ彼女の背中を撫でてやることしかできなかった。
「帰りたくない」
はっきりとそう言って、さびしそうな瞳でぼくを見上げた。
──ママとパパには、愛されているのだろうと思う。ピクニックの話とか、運動会の話とか、家族の話を聞いていると、うらやましくなる。
だから、家にいるのが辛いわけじゃない。
ぼくはそのとき、彼女が泣いた理由を、ほとんど直感的に理解した。
そして──浮かび上がったその答えを、即座に荒波が塗り潰した。
「……帰らなきゃ」
彼女は諦めたようにそう呟いて、ぼくから離れた。ぼくの手からするりと力が抜けた。
振り向くと、砂浜に彼女の両親らしき人影が見える。ぼくを人間の子供として扱ってくれる、優しい人たち。
「……また、来てくれるよね?」
塗り潰したはずの予感が打ち寄せてくる。泣きそうになる。どうしてだろう。心臓が痛い。別れが辛くてたまらない。
微笑んで手を握る彼女を、ぼくは抱き締めたかった。
「来年も、会えるよね」
「うん。会いたい。会いたいよ」
彼女は涙を拭って駆け出した。ぼくの手を離し、ぼくに小さな背中を向けて。水を蹴る音が、波が引くように遠ざかっていく。さびしかった。涙を拭いながら、ぼくは彼女に手を振って、声を絞り出した。
「またね!」
彼女はまぶしい笑顔で、ぶんぶんと手を振り返してくれた。
「またね、人魚さん!」
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