君に捧げる曲

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君に捧げる曲

水族館に着いた。 海辺にたたずむ大きな入口。 多くの人で賑わい、道路を挟んだ山からは蝉の鳴き声が聞こえる。 去年来た景色と同じだ。 だけど、そこに音波の姿はない。 水族館を目の前にした時、俺は一瞬、何かを感じた。 彼女がいなくなってから今まで無だった感情が、ほんの少しだけ、何かは分からないが、心が痛くなった。 何かを思い出せそうな気がする。 中に入り、展示の部屋を訪れた。 相変わらず、たくさんの種類のクラゲたちが水槽の中をふわふわと泳いでいる。 俺は、去年音波と見たユウレイクラゲの展示部屋へ向かった。 たしか、ここだったよな。 あれ。 ユウレイクラゲがいなくなってる。 俺は気になって、近くにいた飼育員に聞いた。 「すみません。去年ここにいたユウレイクラゲってどこにいますか?」 「あーユウレイクラゲですね。実はですね、クラゲって環境の変化に弱い生き物なんです。なので、一定期間展示したクラゲたちは海へ返されています。ユウレイクラゲも多分、海に戻ってしまったんだと思います。」 「そうなんですね。ありがとうございます。」 「いえいえ、また聞きたいことがあったら何でもお聞きください。」 いなくはなったけど、海のどこかにいるのか。 ユウレイクラゲは、この世界からいなくなってしまった訳じゃないんだ。 俺は何故か、少し安心した。 きっと、知らず知らずのうちに音波とユウレイクラゲを重ねているんだと思う。 音波も、本当はこの世界からいなくなってしまったのではなく、俺の知らない、どこか別の場所で、きっと元気にしているんだろう。 その後も俺は、展示室を見て回った。 他の場所も展示物が少し変わっていたが、去年音波と来た時の面影はあった。 そして、俺は最後の大水槽の前へやって来た。 忘れもしない、2度の告白をした思い出の場所。 水槽の前に立つ。 何百、何千ものクラゲたちがこの大水槽の中を泳ぎ回っている。 一匹一匹が、幻想的な空間を作り出している。 俺はこの空間がたまらなく好きだ。 初めてのキスをした場所であるからというのはもちろん、この水槽を照らす光の加減がほど良く、今いる空間一体が綺麗な薄暗い海の色になる。 水槽に手を添える。 目の前の景色が、青い光で包まれている。 その色は、クラゲが動く度にほんの少しだけ明るくなったり暗くなったりする。 君は、どこにいるのか。 君は、幻だったのか。 しばらく無数のクラゲたちを見つめたあと、俺はグランドピアノの椅子に腰を掛けた。 そして、指先で、音を奏で始めた。 ゆっくりと、ゆっくりと、鍵盤を押していく。 美しいグランドピアノからの音が、この幻想的な空間に響き渡る。 ここは真夜中のように、暗くて、深い。 暗闇の中で、どこからか微かな光が、目の前の小さな海を照らす。 それに反射するように、無数のクラゲたちが白く輝いている。 彼女に聞いて欲しかった一曲。 音波がいなくなってから、俺はピアノを練習した。 無の感情ではあったけれども、心はいつも彼女を欲していた。 これが完成したら、何かが変わるかもしれないと思った。 そしてやっと、その時が来た。 今、この場所で奏でよう。 届けよう、君に。 この思いを。 6693bc41-cce6-4990-80d5-02cc6a11c439 指先から溢れ出すメロディーが、この空間を包む。 奏でて、響く。 たくさんいたはずの人々の声が、だんだんと聞こえなくなる。 奏でたメロディーは、一段、もう一段と、徐々に大きくなっていく。 メロディーが最高潮に達した時には、もう誰の声も聞こえなくなっていた。 そしてまたゆっくりと、ゆっくりと、鍵盤を押していく。 だんだん静かになっていく。 最後に押した鍵盤は、とても優しい音だった。 ピアノから顔を上げようとしたところで、妙な雰囲気を感じた。 あたりが静かすぎる。 まるで誰もいなくなってしまったかのように、音がしないのだ。 恐る恐る顔を上げていく。 視界が少しぼやけている。 目を擦るが、視界はぼやけたままだ。 目じゃなくて、周りの空間がぼやけているのか。 その時だった。 後ろから、声がした。 「凄いよ。感動したよ、奏音。いつの間に練習したの?ギター以外にも楽器弾けるなんて知らなかったなぁ。」 聞き覚えのある声だった。 そんな。 あり得ない。 だってお前は。 1年前に。
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