後悔

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後悔

 風呂に入り、ついでにかなり汚れたメイド服も隅っこで念入りに洗ってきつく絞った。流石にこんなにばっちくなったものを洗濯当番に洗って貰うのは申し訳ないものね。  エマリアとジョアンナには、 「何で一日でそんなに真っ黒けになるのよ」  と呆れられたのだが、レオン様がご不在の間に普段やっていなかったところを掃除したのだ、と自慢げに打ち明けたら余計お説教された。 「目を光らせている人がいなくてサボれる時にどうしてよ? どうせならいらっしゃる時にやって、パトリシアが仕事熱心だと褒めて貰えばいいじゃないのよ。お給料上がるかも知れないじゃないの」 「……あら、言われてみればそうね。思い至らなかったわ」 「本当にパトリシアは能天気なのだから」 「全くだわ。生真面目というか融通が利かないというか……あんまり無理するんじゃないわよ。ただでさえ気を遣う場所なのだから」  なんだかんだ言いつつ心配してくれる仲間がいる、というのは有り難いものだ。けれど、今の私の関心はヒルダ様の日記のみ。  メイド服は窓を少し開いて室内に干し、夕食を食べて早々おしゃべりすることもなく「疲れたみたい」と部屋に引っ込んだ。 「……少し緊張するわね」  五年前に亡くなったレオン様のお母様。彼が顔は母に良く似ていると言っていたので、きっとそれは華のある美しい方だったんでしょうね。  私のような凡庸でどこにでもいるような、華やかさのかけらもない地味な女からしてみれば、完璧な女性のような方の思考回路は良く分からないのだ。だから、レオン様のお母様である興味もだが、どのような考え方をしているのかということも興味がある。  ぱらりと最初のページをめくると、 『ああ、本当に鬱陶しい男たち! 話し掛けないでよ、ばーかばーか』  という一文が目に飛び込んで来た。 「……え?」  ちょっと予想外の内容にとまどいつつも、改めて初めから読み進めた。 『×月×日  私の十八歳の誕生日パーティーを開くと父様が言った。伯爵家の一人娘なのだから、それなりの家から婿を迎えなければならないそうだ。今から憂鬱で仕方がない』 『×月×日  パーティーは予想通り、本当に退屈だった。婿候補らしい名前も良く覚えられない複数の男と顔合わせさせられ、作り笑いが固まったままで今でも顔がつりそうだ。私は自分で言うのも恥ずかしいが、美人らしい。両親が言うには、王族に嫁いでも納得出来るほどの美貌なのだそうだ。実際、公爵家からも打診があったそうだが、流石に四十間近の同い年の息子がいるようなところの後添えではあまりに不憫、ということで流れたらしいが、私の意思はどこにあるのかしらね。誰も彼も、お美しいとか女神のようだとか見た目のことばかり褒めるけど、私の中身については全く興味がないのね』 『×月×日  その後も何度か成人祝いの名目でパーティーを開いては色んな男に会わされ、デートもさせられたけど、宝石か花のように着飾って私を連れ歩き、ただ周りの人間に自慢しているだけ。そこに私の気持ちはない。皆、私に食べたいものや飲みたいものを聞いても、私が何に興味があって、何が苦手なのか聞いてくれる人はいない』 「……まあ……」  読んでいてとても身につまされてしまう。ヒルダ様は美貌であるがゆえに個人の意思を尊重されない。私は存在感のなさ、影の薄さゆえに周りの男に恋愛対象として求められない。  次第に私は夢中で文字を追っていた。 『×月×日  屋敷での何度目かのパーティーで、空虚な会話を交わすことに疲れて、化粧室に避難することにして会場を抜け出した。そこで、ゲイリーと出会った。彼は伯爵家の次男坊で、確か騎士団に勤めていた。廊下に突っ立って、黙って壁に掛けられていた絵を眺めて、ただ彼は泣いていた』 (ゲイリー様……旦那様との出会いだわ) 『×月×日  そんなところで何をしてらっしゃるの? と聞いたら壁を見たまま、この絵を見ていたら何だか感動して涙が出て来たという。少しドキリとした私は、この絵のどこが良いか聞いてみた。すると「綺麗な花瓶にたった一本の薔薇が、途方もない寂しさと絶望、でもどこか温かみを感じる」と。「……それ、私が描いたのよ」恥ずかしさで聞いていられなくなり打ち明けたら、初めて私を見たゲイリーは、「素晴らしい才能だね」と笑顔を見せた。私の美貌を称えることもなく、「やあ、すっかり腹が減ってしまった。せっかくパーティーに来たのだから美味しいものを食べないとね」とさっさと会場へ戻って行った。私は父様に、結婚するならゲイリーがいい、と初めて自分の希望を伝えた』 『×月×日  婚約後、ゲイリーと何度かデートを重ねたが、私の絵の話や、何が許せて何が許せないのか、人間として好ましい相手とは、どんな本が好きか、そんなたわいもないものだった。たわいもない、だがたまらなく私が求めていた会話だった。そして、彼は結婚してもなお、私の顔を褒める台詞を言うことはなかった』 『×月×日  自分の売りである美貌も彼には何の価値もないのか。私の気持ちばかり高まっているようで不安になり、ある日思わず尋ねた。「ねえ、私は綺麗じゃないかしら?」彼はびっくりしたように「何だいいきなり」と笑った。「僕は友人にも気が利かない男って言われてるんだ。すまないね。興味がないっていうかさ、顔の美醜って良く分からないんだ。多分ヒルダは周りの言葉を聞いていると綺麗なのだと思うけど……実はね、あの心を動かされるような絵を描いたのが君だって言われて、ああこの人と結婚したいなと思っていた。別に君がおデブちゃんでもうーんと年上の未亡人だったとしても、同じだっただろうね。それほどまでにあの絵は僕には光り輝いていたんだよ。あの絵が描けるならきっと、素晴らしく心が純粋で尊敬できる人だろうなって」私は泣いてしまい、彼をオロオロさせてしまった。私が何の努力もせず両親から受け継いだ、年を取れば衰えて影も形もなくなる美貌よりも、私が時間をかけて、試行錯誤して仕上げた絵の方を褒めて貰ったことで、初めて私個人を必要とされた、という安堵に包まれたからだ』  読んでいる私も思わずもらい泣きしてしまい、ハンカチで目元を押さえた。美しければ美しいなりに悩みもあり苦労もある。私は女としては不幸ではないかと思っていたけれど、美貌の衰えに一喜一憂する必要もないのだ。これは実は幸せなことではないか。  そんなことを考えてながら読み進めていると、レオン様が生まれた後のことに話は移っていた。やはり幼い頃からお菓子が好きなのね、と微笑ましく眺めていると、ヒルダ様が心を痛めていることを感じる文章になった。 『×月×日  レオンは頭も良く心の優しい素晴らしい息子。でも、残念ながら私にとても良く似てしまった。ゲイリーのような男らしい顔であれば良かった。過ぎた美貌はとかくトラブルを招きやすいものだから』 『×月×日  今日、レオンが泣きながら部屋に駆け込んで来た。マギーが自分の服を脱がそうとした上に胸を触れと言われ、断ったら無理やりキスをされ舌を入れられたという。マギーは親戚の娘で十六歳になったばかりだ。以前からうちのパーティーに来るとレオンにまとわりついていたが、純粋な仲良しの親戚のつもりではなかったようだ。十二歳になったばかりの子になんてことを、と怒りに目がくらんだが、非難しようにもマギーは外面が良いというのか、周りを取り込むのが上手い。被害者は逆にこちらだなどと言い出して、下手したら責任を取らせようとするかも知れない。腹立たしいがことを荒立てるのは得策ではない。私は次のパーティーから彼女に一切近づくな、挨拶したら部屋に戻って一歩も出なくていいから、とレオンに言い聞かせた。可愛いレオンが成長し、年々美貌を増すごとに、こんなことになるのではないかとの不安が的中した。今後はより一層の注意をせねばと決めた。レオンも最初は不眠を訴えたり急に泣き出したり、ということがあって私の不安は尽きなかったが、マギーが遠方に嫁ぐことになって屋敷に現れなくなってから、次第に元気を取り戻した。ただ忌まわしい事件のあとから香水の匂いを嗅ぐと、周囲に広がるほどの香水をつけていたマギーのことを思い出してしまうのか、頭痛がするから嫌だ、というようになった。私の香水も全部廃棄だ。ただでさえ花粉アレルギーを持っているのに……つくづくマギーの所業を恨むばかりだ。せいぜい結婚に失敗して浮気されるか離縁されてしまえ、という醜い感情まで芽生えてしまったが、こればかりは反省するつもりはない』  香水がダメになったのはこの件があったからなのね……。  私はため息をついて目を伏せた。  ──これは絶対に私が知っていてはいけないことだ。家族内に秘めておくべき内容である。  私は続きを読まずにそのまま日記を閉じた。  お母様の日記だから是非渡さねばと思ったが、これは自然にレオン様が見つけて下さるまで書庫の本棚にしまっておくべきものだ。明日早々に戻しておかなくては。  私も浅はかだ。興味本位で読んでしまったことを深く後悔した。でも読んでしまった事実はもう無かったことには出来ない。  この日記の内容は決して口外するまい。  ……それにしても、レオン様が気の毒でならない。  私は胸が締め付けられるような思いで、深夜まで眠れずに何度も寝返りを打っていた。
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