280人が本棚に入れています
本棚に追加
謝罪
「……パトリシア、あなたすごい顔色よ? 風邪でも引いたの?」
「え? そう? ちょっと食欲がないだけよ」
結局ほぼ一睡も出来ないまま、私は翌日仕事をしていた。
昼食時にエマリアから気遣うような言葉を貰い、ジョアンナには「だから無茶してやらなくていいところまで仕事するから」などと責めるように言われた。ジョアンナは口調も少し乱暴だったりするが、実はかなり心配してくれていることが分かる。
申し訳ないと思いつつも適当にごまかして仕事に戻る。
雑巾で埃をせっせと拭き取りながら、他にやり残しはないかとあちこちを行ったり来たり。何かをしていないと落ち着かないのだ。
そして、何もないと気づいてため息をついた。
(……人の道に外れることをしてしまった)
昨夜から思うのはそのことばかりだ。いくらレオン様から好きに何でも読んでいいよと言われたとしても、家族の私物である日記を盗み見た私の罪が消える訳ではない。
普段の私であれば、例え出来るとしても決して中身を見るということはしなかったと誓える。
ただその常識外れの行動に至った原因は、夜中眠れぬ間に考えて、自分でもある程度理解はしていた。私の中に生まれてしまっていたレオン様への好意である。
こんな私でも必要として下さっているレオン様の手助けがしたい、レオン様をもっと知りたい、自分が役立つためにどんな情報でも欲しい、そんな考えから、通常なら思いもしない行動に私を駆り立ててしまった。
人のプライバシーを土足で踏みにじるような行いは、決して許されるべきではない。私はその事実を隠蔽しようとまでしてしまった。
自分は決して華やかでも目立つ存在でもないが、良心に恥じぬよう、人として正しい振る舞い、言動をこれまでして来たつもりだった。なのに、昨夜の愚かな行動で、自分を形作る土台がどんどん崩れていくようなこの状況に心が耐えきれなくなっていた。
「自業自得じゃないのパトリシア……どうにもならないわ」
独り言を呟いて、また深くため息をついた。
──いえ、まだやるべきことがある。例え職を辞することになったとしても、嫌われたとしても、私は正直にレオン様に謝罪しなくてはならない。
言わなかったとしても気づかない場合があるかも知れない。だが、それはいつ崩れるかも分からない偽りの平穏だ。
私はこれ以上自分を嫌いになりたくはなかった。十八歳、もうれっきとした成人だ。自分の不始末の尻ぬぐいを自分で出来なくてどうする。
レオン様に嫌われるのは……悲しいことだが、それも私の行いゆえだ。
そう覚悟を決めると、少しだけ気が楽になった。
あとはレオン様が視察から戻られるのを待つだけだ。
「パトリシアただいま! いやあ、向こうでは雨ばかりで道が泥でぬかるんでて馬車の車輪がはまったりと散々だったよ」
二日後、レオン様がワイナリーの視察から戻られた。
書斎の椅子に座って愚痴をこぼすレオン様に、私は紅茶を淹れて静かにお疲れ様でした、と答えた。
引き出しからクッキーをいつものように取り出し、シャリシャリと美味しそうに食べながら、やっぱり屋敷は落ち着くね、と言った。
「パトリシア……何か元気がないね。どうかした?」
私がうつむいたままで黙っているのを心配して、レオン様は心配そうに声を掛ける。
「……実は、レオン様にお詫びをしたいことがございます」
私は床に正座をし、土下座をする。
「え? え? 何、どうしたの?」
私はご不在の時に片付けようと書庫の掃除を行ったこと、その際ヒルダ様の日記を見つけてしまい、気になって香水が嫌いになった件の辺りまで見てしまい、他人が読むべき内容ではないと遅まきながら気づいた。その先は読んでいないが、途中までご家族の日記を盗み見てしまった事実は変わらない。解雇されてもお叱りを受けても構わない、処分は受けるが家族には迷惑を掛けたくないので、出来れば私一人の処分で済ませて頂きたい、と一気に伝え、また頭を下げた。
「──ああ、あれ読んだんだ。別に構わないよ」
「……は?」
私は驚いて顔を上げた。
レオン様は苦笑したような顔をしているが、私は何が何やら分からない。
「あの、お分かりではなかったですか? お母様の日記を私が……」
「読んだんだろ? 途中まで。分かってるよ。私はあそこにあるものは何でも読んで構わないよ、と以前言ったが覚えてなかったかい?」
「いえ、で、ですが亡くなられたお母様の日記ですよ?」
「うん。──君はさ、その途中まで読んだ日記の内容、どう思った?」
レオン様が真顔になり尋ねて来る。
「え? それは息子さんを思う、大変いいお母様だと……」
「そっか……私はさ、母が怖ろしかったよ」
「──怖ろしい?」
私は混乱した頭の中で、聞き返した。
「私も母の日記は読んだことあるよ。書庫に放り込んだのも私だしね。……パトリシアがあの香水の件辺りまでしか読んでないなら、子供思いのいい母親って印象なんだろうけどね。きっと続きを読んでたら鳥肌立ってたんじゃないかな」
レオン様が語るお母様の話は、私の想像を絶するものだった。
あのマギー様との一件以来、レオン様と異性との接触を病的なまでに排除し、友人同士の付き合いまで制限するようになったのだと言う。
「昔ね、学校に行っていた頃なんだけど、本当に私とは気の合う友人の一人ってだけで、恋愛感情なんか一切ないし、卒業したら結婚が決まっている女の子がいてね。勿論変な誤解されないよう二人きりでなんか会わなかったし、その恋人も私の友人だったから、何度か一緒に遊びに行ったりしたこともあった。でもあの一件から母は、私に近づいて来る女は全員顔目当てで、可愛い息子を傷つけるふしだらな女だ、って思うようになっていて、誰に対しても罵詈雑言を浴びせ、あることないこと言いふらすようなひどい人になっていた」
「……」
「それは多分マギーのことが発端ではあったかも知れない。だから私にも責任はあるんだけどね。でも、私が強く止めても母は『あなたは騙されているのよ』と笑った。その後、収まったと思っていたんだけど、母は止めてなかったんだ。あの人は年を取っても美しかったから、パーティーには引っぱりだこでね。ここだけの話、とかご婦人方にないことないこと触れ回っていた。信じた周囲の人間から、思ってもないことを責められ罵られ、その子は精神に変調をきたしてしまった。……で、卒業目前に、大量に薬を飲んで亡くなってしまった。母を止められなかった私の責任だ」
何と言葉を返していいか分からず、私は黙ってしまった。
「息子の女性関係以外は良き妻であり良き母だったんだけどね。……だから、正直亡くなった時には悲しくもあったけどホッとしたことも事実なんだよ。母の日記はね、後半女性への罵りとかこんなこと言ってやった、みたいなのばかりで、読んでて寒気がするから読まないで良かったよ。私も捨てられないけど二度と読みたくなくて、書庫に埃が溜まるまま放置していたんだから。女性は何がきっかけでおかしくなるか分からない、と母を見てずっと思っていた。パトリシアみたいな気遣いの出来る人もいるんだなと思ってから、母も全部が悪い人ではなかったと考えるようにはなったけど、私が本当に好きになって結婚したい人が現れた時に、その人を傷つけるんじゃないかと思うと、恐ろしくて誰も好きになれなかった」
「レオン様……」
「ああ、話がそれちゃったね。……うん、だからね、いつかはパトリシアにも話そうかと思っていたし、別に見つかって読まれたって構わなかったんだよ。だから気にしないでいい」
ただ、そういうお母様だったからと言って、私がおかした罪はなくならないのだ。私がそう言って、解雇でも何でもして欲しいとお願いすると、レオン様は突っぱねた。
「パトリシアは素直に打ち明け謝った。私は気にしないと伝えた。これでおしまいじゃないか。これは当事者同士の話し合いだろう?」
「ですが、私が一般的に悪いことをしたのは事実ですし……」
「あのね、一般的って何? それはこの件と何の関わりもない赤の他人で第三者だよ? そんな無関係のその他大勢の人の倫理観や道徳観念って、それこそ私たちとは一切関係がないことじゃないか。その他大勢が【恥を知れ】とか【人としてあり得ない】とか言ったところで、謝罪された相手が『何にも気にしてないし謝らなくていい』と言ってるんだ。それをグチグチ言うのって、単に自分の正義を押し付けているだけなんだよ。君は若いからまだ分からないだろうけどね」
「そうは仰いますが……」
レオン様はまた新しいクッキーを取り出してかじりながら少し考えた。
「そうだなあ。……パトリシアに聞きたいんだけど、例えばさ、毎年孤児院に多額の寄付金を出している紳士が、家では妻を肉体的、精神的に痛めつけている場合、正義はどっちにあると思う?」
「え? それは当然被害を受けている奥様ですよね?」
「それも一つの正義だよ。でも、孤児院の子からしてみれば、食べる物が満足に提供されるのはその紳士のお陰であって、彼らには紳士が絶対的な正義だよね」
「それは……」
「どんな物事にもした方、された方それぞれの言い分があり、それぞれの正義がある。紳士だって妻をつい責めてしまうのは、跡取りである子供を産んでくれないし、散財して財産を食いつぶすのがストレスになって、という自分なりの正義を持っているかも知れない。もちろん暴力は良くないけれどさ。だから正義っていうのはね、立ち位置が変わればコロコロと変わるような曖昧なものなんだと私は思っている。そして皆身勝手なんだよ。客観的にとか言いつつ、結局は自分主観でしか考えられないんだ。そういうものなんだよ」
はい、とクッキーを一枚渡されて、そのまま受け取ったものの、レオン様が何を伝えたいのか良く分からない。
私をじっと見ていたレオン様が、また少し笑った。
「パトリシアは罪悪感が拭えないんだろう? 私が怒ってもおらず気にもしていないことに対して、ずっと抱える罪悪感って無駄なものじゃないかな? 私はパトリシアが働きに来てくれてとても助かっているし、正直以前よりずっと屋敷での居心地も良い。お菓子も買って来て貰えるし、たまにお手製の焼き菓子もくれる。私の居心地の良さを乱すことなく、話し相手にもなってくれている。私にとってパトリシアを辞めさせるなんてデメリットしかないし、ずっと居て欲しいぐらいだ。必要なんだよ」
ポロポロと抑えられない涙がこぼれ落ちる。
「──こんな私でも、まだ必要として頂けるのでしょうか」
「とっても必要だよ。……ああ、いいこと思いついた!」
「……?」
「そんなに気になるなら罰を与えるよ。これから働いている間は定期的に私にお菓子を作ること。君のお菓子は優しい味がして、食べていてホッとするんだ」
「……そんなことでよろしければ喜んで」
「はい、それじゃこれで今の話はおしまい。……言っておくけどね、どんな人も決して間違いをしない訳じゃない。それでもやり直せるのが人なんだよ。何度言っても君が悪いことをしたと考えるなら、次はやらないようにすればいいだけだ。私なんて何度やり直したか分からないよ」
クスクスと笑うレオン様に、私も少し救われるような気持ちになった。
罰という形で私にここに居てもいい理由を与えてくれる。
私はレオン様の優しさにただひたすら感謝を捧げた。この御恩は生涯忘れずに生きて行こう。そう思った。
最初のコメントを投稿しよう!