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メイド長の日記
【マルタの日記】
×月×日
新たに三人のメイドが入った。エマリアとジョアンナとパトリシア。エマリアとジョアンナは貴族の令嬢として何もせず育って来たようで、数日は手際も悪く、筋肉痛なのか指示を与えるために軽く肩を叩いただけで、ぎゃうとかぐふっと言う女性にあるまじき声を上げて悶えていたが、ようやく近頃は戦力の末席に加えてもいいくらいには仕事が出来るようになった。まあ礼儀見習いだろうし、婚約でも調えば退職するであろうが、ならば早く使い物になってくれた方がこちらとしては有り難い。
最初は上品系な美人と肉感的なセクシー美人ということで、もしやレオン様にちょっかいを出そうと企んでいるのではと疑心暗鬼になったが、エマリアには恋人がいるようだし、ジョアンナも胸が大きいせいで男性からいやらしい視線を向けられる、とむしろ男性を苦手にしているようだ。含むものもないようだし、こちらは安心して良いかと思う。
パトリシアについては、正直男爵令嬢とは思えないほど仕事が出来る。手際も良い。聞けば母親も元平民で、裕福でもないので人を雇うゆとりもなく、家族で家のことは回しているとのこと。ほぼ平民のようなものです、と気取りなく笑うところが大変好感が持てる。
ただ、この子の陰の薄さ、存在感のなさというか気配の消し様は同じ女性として心配だ。十八歳という若さで既に達観して枯れかけたご老人のようではないか。
これから結婚もしようかという年頃で、顔を活かすようなメイクすらしない。私には夫も子供もいないが、自分の娘がこのように「私、昔から空気みたいだと言われてまして」とひょうひょうとしていたらむしろ不安でしかない。男性からも意識されにくいと自覚しているためか結婚願望もないようで、「マルタ様、一生懸命働きますのでビシビシ鍛えて下さい!」と子犬のような曇りのない目で見つめられる。えらくなつかれたものだが鍛えがいはありそうだ。
×月×日
不覚にも仕事中に足を滑らせて骨折してしまった。しばらくベッドから動けそうにない。これも年のせいかと思うと情けなくなる。
だが問題は、レオン様の主な居住エリアの清掃だ。
レオン様は花粉アレルギーもあり、香水などの匂いでもひどい頭痛に見舞われたりする。かなり神経質なところもお持ちなので、ご自身のプライベートエリアに他の人間の気配が漂うのも大変嫌がる。私ですら長い付き合いではあるものの、役職に伴う威圧感があるのか、文句までは言われないものの居心地が悪そうである。
仕事自体はベテランのメイドたちにもこなせるものだが、仕事が出来ることで良くも悪くも存在感がある者ばかり、さらには香水は女性のたしなみのような側面もあるので、普段少々でも付けているものが殆どだ。
すぐに思い浮かんだのはパトリシアだ。あの子は香水が嫌いだとかで普段からつけてない。そして大変控えめな見た目で、存在感は本人も言う通り薄い。私ですら背後に立たれていたことに声を掛けられるまで気がつかなかったほどである。
そして明らかにレオン様に対する邪な感情がゼロだ。
そんな緊張するような場所は嫌だと逃げようとするパトリシアを、未来のメイド長を考えているなどと上手く転がして配置した。もちろん先々パトリシアがずっと勤めるつもりであれば、本気で何年か後にはメイド長への昇進を検討している。彼女が悪いことのように言う「存在感がない」というのは、逆に言えばメイド仲間たちの手伝いをしようが仕事の采配をしようが、誰にも不快感を抱かせないほど違和感も感じさせず、さり気ない気遣いが出来ていることの表れである。これは年齢や人生経験の長さで必ず得られるものではない。彼女の性格的なものでありギフトとも言える。上に立つことで円滑に場を回せるタイプなのだと私は思う。
×月×日
時々レオン様にいることを気づかれなくて固まられておりますー、と言いながらもパトリシアは真面目に働いているようで、レオン様からも他のメイドに変えてくれという話は来ない。人の気配に敏感なレオン様に気づかれないというのも一種の才能だろう。
あと数日で復帰できそうな頃、私の部屋にレオン様が来られて、
「彼女ならストレスにならずとても助かるので、引き続きパトリシアを担当にして欲しい」
と頼まれた。よほど仕事ぶりとあの控えめな存在感がお気に召したのだろう。彼女なら問題ないと思っていたが私の読みは間違いではなかった。
×月×日
パトリシアの友人の父と仕事をすることになりそうだから、パーティーに参加するためパトリシアを磨いてくれとレオン様に頼まれる。以前話があった元幼馴染みも出るそうで、パトリシアを見下す人間を見返してやりたいのだそうだ。大変興味深いお話で私も腕が鳴る。
明らかにパーティーなど好きではなさそうなパトリシアを遠慮なくドレスアップし、髪を結い、渾身のメイクを施す。
元が良いのは分かっていたが、出来上がってみればそこらのご令嬢よりよほど気品もあって美しい。静謐な美貌とでも言えばいいだろうか。パトリシアは「このいつも眠たい顔がマルタ様のお陰で別人のように!」と浮かれていたが、メイクにわざと手を抜いているのではないかという疑いすらある。きっと着飾らないことで、自分の内面を好きになってくれる人を無意識に求めているのではないだろうか。レオン様があのお顔で色々と災難に見舞われているぐらいだ。有り得そうな話ではある。
×月×日
レオン様が大の甘党であることがパトリシアにバレたらしく、パトリシアが休暇で家に戻った際のお菓子の購入を受け持っているようだ。
「毎回、女性への贈り物だとか家族への土産とか言い訳して買わなくても、彼女が評判のお菓子を買って来てくれるんだ。本当にパトリシアには頭が上がらないよ」
書類を運んで行くと、レオン様はそう言いながらご機嫌でマドレーヌをかじっていたが、女性そのものへの不信感がパトリシアには向けられていないことを、一体レオン様はいつ気づくのだろうか。
聞けば花粉アレルギーについて試薬をパトリシアの友人(薬剤の研究者らしい)から受け取って現在服用しているそうで、症状が抑えられて最近では噴水広場の花壇の辺りを歩いても、パーティーでむせるような香水や生花があっても少しくしゃみが出る程度で収まっているとか。
もしパトリシアが辞めたら一体どうなることだろうか、と他人事ながら心配せずにはいられない。
×月×日
最近、仕事の合間に気をつけていると、レオン様はせっせと掃除をしているパトリシアを離れたところから笑顔で見つめていたりするし、お菓子を買って来たお礼ということでご自身でお茶まで淹れてお茶会をしているようだ。
何故そんなことまで知っているのかと言えば、パトリシアがバカ正直に「これは決してやましい気持ちではありません。仕事の報酬で普段頂けないようなお菓子を頂いているだけなのです」と報告に来たからだ。
よくよく考えたらあの子も色恋に関しては致命的に疎かった。
私から見ればどちらも憎からず思っているのは明らかなのだが、パトリシアは働く初日からクビにされたご令嬢の話を聞いているぐらいだから、絶対に踏み込むことはないだろうし、レオン様は以前のご友人が亡くなられた件以来、女性に深入りすることを拒否している。
私は、レオン様が純粋に好きな方と幸せになって頂きたいだけなので、それがパトリシアなのであれば個人的に応援するつもりはある。
別に男爵令嬢だからといってロンダルド家との結婚の障害になるようなものでもないし、今時は望めば平民でも貴族に嫁げる時代だ。
大旦那様は息子のことよりも、亡くなられた大奥様の思い出にしか興味がなくなっているような状態で、別荘で引きこもって暮らしている。息子が誰と結婚しようがどうでもいいと思っていることは想像に難くない。
家族なのに関係がどこまでも希薄で、愛情を一方向にしか注げなかった可哀想なお方である。レオン様もさぞお辛いことだろう。
……しかし、そのためには乗り越えなければならない、とても大きな問題が一つ残っている。これは、レオン様が解決するべき問題であり、私が立ち入ることの出来る問題ではない。
ただひたすらその時を待つのみである。
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