退路がありません

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退路がありません

 一カ月ほど仕事をしていても、新人メイドである私は当主であるロンダルド伯爵の姿を間近で見る機会はなかった。二度ほど外出する際の後ろ姿をチラリと見ただけである。 (あっせん所の所長やメイド長のマルタ様がしつこいぐらいに念を押していたけれど、心配することもなかったわね。夜這いどころかお会いする機会もないのだもの。ああ良かった!)  メイドとしての仕事も、個人的には思ったよりも楽だった。  朝の九時から流れ作業で十人ほどのメイド仲間と掃除をし、洗濯をし、食事の準備をしたり浴槽に湯を沸かしたりと、私が家でやっていたことと違いはないので、屋敷の広ささえ除けば慣れるのは容易だった。日勤のメイドは五時で作業終了である。その後は夜間の担当として数名のメイドが交代で対応する。今はベテランのみだが、私たちも慣れて来たら夜間の担当も受け持つそうだ。まあ夜の仕事は急な訪問者の対応や、朝食用の野菜などの食材を地下倉庫から厨房に運ぶなど、そう忙しくはなさそうだし、お手当もちゃんと付くそうなので、貯蓄に励みたい私には願ってもない話だ。  食事の給仕の際にも、なるべく当主と顔を合わせないようにするためか、ベテランのメイド以外は食堂への出入りは禁じられているので、ちょこっと休憩も挟めるしとてもありがたい。  先輩たちも優しく面倒見が良い人ばかりでイジメなどもない。時にはおやつも頂ける。週に一度丸一日のお休みもあり、外出も自由だ。  ──つまりは良い職場ということである。  一緒に入ったエマリアとジョアンナは、普段使っていない筋肉を酷使したためなのか、最初の一週間ほどは「はぃ……」とか「いぇ」と言った最低限のかすかな言葉しか発せず、もしや明日にはベッドで力尽きているのでは、と毎日心配するほど消え入りそうな様子だった。筋肉痛が酷いとかで動きもぎこちなく、先輩メイドから「すぐ慣れるわよ。頑張んなさい!」と背中をぱしーんと叩かれ、ひい、とうずくまって目を潤ませる姿に少々呆れられたりもしていたが、現在は軽口を叩きながら仕事をこなせるほどになった。人は慣れるものである。  思っていた以上に夜眠るまでの自由時間があるため、自室の掃除が済むとぼーっとしている時間が勿体ないと感じたので、初めての休みは実家に戻って刺繍道具と本を持ち帰った。何かしていないと落ち着かないのは昔からだ。実家ならばやることは沢山あるので困らないのだが、何もせずのんびりしていい状況というのは、私にとっては居たたまれないのである。きっと敬愛する平民の母の血を引いているのだろう。  そんなそこそこ忙しくも適度に趣味の時間も持てる快適な仕事場に勤めてから三カ月ほど過ぎた頃。  メイド長のマルタが仕事中に足首を骨折した。  彼女の担当である図書室の清掃中、本棚の上の埃を払おうとして脚立から態勢を崩して転落してしまったらしい。一人で仕事をしていると、こういう危ないことが起きた場合に助けられない場合があるのが恐ろしいのだ。 「旦那様の寝室や書斎などは致し方ないのでしょうが、本棚がいくつもあるような図書室は危険です。せめてどなたかベテランの先輩をお連れになって下さい。マルタ様がおられないとこの屋敷は回らないと思いますもの」  私はマルタの居室に見舞いに伺った際にお願いをした。  彼女は本当に仕事に対して真摯であり、上の立場でも手を抜くことをしない真面目な方だ。まだ短い仕事期間でも良く分かる、厳しくも大変尊敬出来る上司なので、あまり無茶をして欲しくない。  正直マルタが休みの時などは、あからさまにメイドたちのまとまりがなくなったり効率が悪くなったりするのだ。やはり統率力のある人というのは必要なのだと実感する。 「わざわざありがとう。そうですね……私も若い頃は咄嗟の反応にも自信があったのですが……これも年を取ったということですね」  ベッドに横になったマルタは、情けない顔で自身の吊られた足を眺めていた。しっかりと石膏で膝下が固められており、二週間は動かしてはいけないと医者にきつく言われたとかなり落ち込んでいる様子である。 「それでも、足の骨折だけで済んで良かったです。友人のお祖父様は冬場に雪かきをしていて転落し、打ち所が悪くそのままお亡くなりに……」 「まあ、そうなのですか。……私も慢心を反省しなくてはね」  そう言いながら、マルタは何故か私をジロジロと眺め出した。 「あの……マルタ様? どうかされましたか?」 「──以前から思っていたのだけれど、パトリシア、あなた仕事の物覚えも早く手際も良く丁寧で真面目で、本来はもっと周囲から目立ってもおかしくないのに、何と言うか存在感が希薄ですね本当に。これは悪い意味に取らないで欲しいのだけど」  せっかく見舞いに来た可愛い新人メイドに、なんて夢も希望もないことを仰いますか。  確かに間違いではないけれど、もう少しふわっとした表現をしてもらえないかしら。良い意味に取りようがないではないか。  いや、誰もかれも私の印象が薄いと思っていることは実感しているのだ。 「あらパトリシアいつの間に来てたの?」 「もうパトリシアっ、いるならいるって言ってよ。驚くじゃないの」  などと親しいエマリアたちにまで言われる始末である。 「それは私も常日頃感じておりますが、なかなか変わりようがないと申しますか何と言いますか──」 「いえ違うのです。あなたの存在感のなさは大変貴重なのですよ」 「……は?」  マルタは私の目を見つめた。 「──パトリシア、私が休んでいる間、あなたに代わりに私の担当箇所の清掃をお願いしたいと思っています。あなたが一番適任……いえ、あなたしかいません!」 「クビの要因が生息するエリアに立ち入るのはお断りします」  私は即答した。 「パトリシア、あなたは旦那様に何かしようとでも思っているのですか?」 「いえ全く。私は長くこちらで働きたいだけです。【夜道は一人で歩くな】【常に冤罪のかからぬ上流にいろ】というのが両親の教えですので」 「……なるほど。ご両親の教えは大切です。ですがそういう考えならばこそパトリシアにしか頼めないのです!」  嫌だって言ってるのに全く引いてくれる気配がない。私は思わずため息をつきそうになったが、マルタにはずっとお世話になっている恩義もある。 「──私を追い出すために陥れようとしている訳ではありませんよね?」 「まさかそんなこと、ある訳ないでしょう!」  どうあがいても、了承するまで逃がす気はないらしい。 「……とりあえず、何故私なのか、理由をお聞かせ願えますか?」  私はそう答えるしかなかった。
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