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災い
私の身にふりかかる災いのはじまりは、大学を退学した後のことで、前触れもなく突然にやってきた。
自分で決めた人生だから、7年間の大学生活に未練もないし、後悔もしていない。これから先の生活には何の支障もないと思っていた。
だけど、友達や親戚に。
「学校は卒業したよ」
と、偽る自分に嫌気がさしていたのも事実。
何故なら、私は根っからの楽観主義者だ。
生きる意味なんて探さないし、運命や宿命も信じない。
将来はどうにでもなるし、今を楽しまないでどうするの?
限られた時間を、無意味な思考で無駄にするなんて人生悪。
私の揺るぎない哲学は、本質は変わっていないと信じているのだけど、今では空々しいだけのおまじないに聞こえる。
友達は社会人になってスキルを磨いて、結婚して家庭を築いたり、実家に戻って家業を手伝ったり、自分の人生を着実に歩いている。
私はひとり、取り残されている気がしていた。
だから、SNSは嫌いになった。
「それはそれで良いんじゃない?」
そう思えなくなったからだ。
私が大学に行かなくなったのは、学業がつまらなくなっただけの話。
彼氏と同じ時間を共有して、大好きな映画やドラマを見たり、音楽を聴いたり、原宿や下北でお気に入りの古着を買って、インスタで紹介された流行りのカフェでカプチーノを楽しむ。
そんな在り来りな生活を続けていたら、学業や就職に興味すら無くなって。
「意味のない人生なのだから、好きなように暮らしていこうよ」
と、私の中の誰かが、甘く囁いてくれたお陰で、望み通りの自由を手に入れた。
岩手の両親からの仕送りは、毎月申し分のない金額だったけれど、それでも欲望を満たしてはくれないから、カードで高い買い物を続けた。
大きな荷物を抱えた私を、彼氏は呆れ顔で眺めていたけど、いつも笑ってくれていた。
そんな彼氏にも不満はあった。
優しすぎるし物足りない。
もっと大人になって欲しいけど、男の色気には期待できそうもなくて、私はリアリティーの世界でマッド・デイモンを探した。
浮気を繰り返す度、虚構の自分に酔い痴れて、日常の中の非現実世界にのめり込んだ。女優気分で。
だけど…。
私はもう二六歳。
年齢を重ねる毎に、疑問は深まっていった。
結局、なんにも残らないんだもの。
私はだあれ?
私は何がしたいの?
私は私を楽しめている?
私は正直に生きている?
答えはノー。
彼氏とはこの前別れた。
理由は、詳しくは聞けていない、
別れの原因なんて知りたくもないから。
でも、かえって良かったのだと思う。
自分を見つめ直すキッカケになったのだから…。
それでも、私の心は必死に闘っていた。
あれだけ嫌っていた就職活動を始めたからだ。
ひとりで悶々と生活するにも限度があるし、出会いも正直欲しかった。
内定はどこからも貰えていないから、ぼっちにされた広すぎる部屋の中で、慣れない手つきで履歴書を書く毎日が続いている。
アンティークの壁掛け時計。
ふたりで買った、お気に入りのカウチソファ。
クローゼットの中で、山積みにされた大好きな洋服たち。
テレビなんてつまらない。
前はあんなに大好きだったのに。
無駄な時間が、加速度を増して過ぎていく。
証明写真が、思い詰めた私の顔を覗き込んで笑っている。
「あなたはただの愚か者よ」
だって。
私は、やりきれなくてシャワーを浴びた。
熱めのお湯が、全身を包み込んでくれる。
伸ばし続けていた髪の毛は、私の唯一の誇りみたいなもの。
念入りにシャンプーをして、コンディショナーで整えて、トリートメントで潤した髪の毛にタオルを巻く。
真っ白な肌は、以前よりは肌理が粗くなっていて、そろそろエステを予約しておこうかと考えてみたけどやめた。
身体を見られたくなかった。
私は、自分の左胸に手をあてて、何度もやさしくさすった。
脇の少し下の辺りから、胸の膨らみに沿うように斜めに入った大きな傷跡。
彼氏が部屋を出て行った夜に、ソファに座って泣きじゃくっている時に出来た傷だ。
最初はチクリとした痛みがあって、その後は焼けるような熱い感覚と、恐ろしく早まる動悸で息が出来なかった。
ソファから転げ落ちてのたうち回り、胸を押さえながら、酸素を求めて仰け反って、痙攣しながら天を仰ぐ。
次第に意識が遠ざかって、目の前がかすみ始めた瞬間、私の口から一気に空気が溢れ出た。
むせ返り、咳き込みながら洗面台の鏡に映る自分を見ると、目は充血していて涙がポロポロ零れていた。
唇の震えが止まらない。
ガチガチと、歯が重なり合う音がした。
心臓に手を当てて、深呼吸を繰り返す。
彼氏のことなんて忘れていた。
ドクンドクンと聞こえる生命の鼓動。
いつもよりも早いその音は、私の後頭部と耳の後ろを熱くさせた。
胸に違和感を覚えたのはその時だった。
指先に伝わる、いつもと違う感触。
気になってシャツを脱いで、私は思わず息を呑んだ。
紫色をした、大蛇のような長い傷が、みぞおちから左胸を斜めに抜けて、脇の下へとのびていた。
出血はなく、傷の周りは赤く腫れていた。
私は消毒薬を塗って、傷に触れない大きな服、出て行ったばかりの元彼のTシャツを着て、タクシーで救急病院へ向かった。
診察を終えると、医者がはっきりと言った。
「原因は解りません」
やさしそうな美人の先生。
もう日付は変わっているのに、この人には彼氏はいないのかしら?
年齢はいくつくらいなのだろう。
あたしとは全然違うんだわ…等々、関係のない事を考えていると、先生の静かな声がした。
「ストレスを感じている事はありますか?」
私は薄笑いを浮かべた。
彼氏と別れたばかりなんです、そうは言えなくて。
「毎日のように…」
と、だけ答える。
別れを理由にしたら、負けた気がするから強がって見せた。
先生は、私を見ずに。
「心の病気は身体に現れる事もありますから、急に耳が聞こえなくなったり、右半分の顔だけが赤く腫れたりする、そんな患者さんもいらっしゃいます」
「こんな傷が出来る事もあるんですか?」
「いえ、何もしていない状況でこのような傷が出来るとは考えにくいです。でも原因にストレスがあるすれば、その治療が最優先かと思います。紹介状を書きますから、一度そちらの病院で診療されてみてください、安心できる心療内科です」
私は黙って頷いた。
きっと先生は、自傷行為を疑っているのだろう。
丁寧に言葉を選びながら、ゆっくりと話してくれているからわかる。
もちろん、自分で傷つけた訳ではないから、心療内科へは行かなかった。
あれから1週間。
傷は次第に薄れてはいるものの、まだ私の身体で居座りを続けている。
身をくねらせた寄生虫のように。
私は、頭に巻いていたタオルを取って、髪の毛の水分を念入りに拭った。
自慢の髪にまで、寄生虫に侵されそうで怖かった。
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