序「窓」

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序「窓」

 さみしくってしかたがないから、と聞こえて、夏雲の上にいた私の意識は戻ってきた。さみしくってしかたがないから、どうやら死んだらしい。誰が。  視界が少し緑色なのは、あんなにまぶしい入道雲を、私がじっと見すぎたせいだ。緑のシミの奥で、教科書の文字が手をつないで、かごめかごめをしている。うるんだ目で文字を掻きわけて、死んだのはKという男だと、ようやく掴んだところで鐘がなった。  現代文の次は自習室に移動だ。教科書と筆記具を鞄に入れて、教室を出た。  自習室のいつもの席について、また夏雲を眺める。白にも青にも、様々な濃淡があるものだ。カバの親子がほぐれて逆立ちした男の顎髭になったところで、肩をたたかれた。  振り向くと学級委員長の田中さんだ。なにやら髪を振り乱して額に汗して、きちんと装着した不織布マスクをしゅこしゅこへこませている。田中さんの目力の強さにはいつも圧倒されてしまうのだが、この時も、私はどぎまぎした。高三の先輩だらけの静かな自習室において、手ぶらで立ち尽くし、呼吸を荒げる委員長はかなり浮いている。  委員長ともあろう者が一体どうしたのかと心配すると、張り付くマスクを少しつまんで、にほんしにほんし、という。私は飛びあがって椅子を蹴倒した。  暴れたのではない。ただ激しく立ち上がった。荷物をまとめて、委員長と走り出す。曜日と時間を間違えていた。日本史の授業をすっぽかして自習室にいたわけだ。授業開始から十分ほどは経っているだろうか。委員長はさしずめ教師に言われて探しに来たのだろう。  眼鏡の教師は安堵したように笑い、授業は再開された。各所に申し訳ないことをした。
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