第二章 資料室

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3 貴婦人  資料室は木造旧校舎の一階にある。図書館の手前の小さな部屋で、開校以来の歴史資料が集められた部屋である。  夏なのに本校舎は陰影が多くひんやりとしている。磨き抜かれたダークウッドの床は黒い湖面のように滑らかで、オレンジ色のシャンデリアを反射して輝いている。資料室はその片隅にあった。ノックをすると奥からくぐもった返事がある。 「失礼します」  資料室に入るのは初めてだ。開けるとまず壁をぐるりと天井まで覆う本棚に圧倒される。両側にガラス張りの展示ケース、深緑色の唐草模様のベンチ、かつて全教室で使用されていた風変わりな机など。衝立の向こうには窓と書き物机が見える。奥の小さなドアが開いて、さっきの返事の主が現れた。 「こんにちは」  きれいにウェーブした白髪の老婦人が現れた。肩にショールをかけて、おとぎ話のおばあさんみたいだ。ゆっくりと歩く手にはステッキ、右足がお悪いらしい。 「すみません。あの……今、見学って大丈夫ですか」 「もちろん。どうぞゆっくりご覧になって」  声はビロードのように美しい。エレガントと言う言葉がぴったりだ。 「お客さんがいてうれしいわ。暇を持てあましていたところだから」  なんだろう、白黒映画の吹き替えみたいな。流れるように女性的なしゃべり方をされる。これが鶴見先生だろうか。  先生に見守られているのを感じながら、一通り資料室の本棚を見ていく。歴代の学校の機関誌、紀要、先生方や卒業生の著作。生徒の寄稿文、歴史書、記念出版物。創立者の宣教師たちの伝記などなど。 「あら私、マスクをどこにやったかしらね」  先生は奥の部屋へゆっくり戻って行かれた。私が来たせいでマスクをさせなくてはならないのが心苦しい。 「いいのよ、構わずご覧になって」  それにしても、格調高い部屋と資料の数々である。ここにある資料が、いまのざわついた私の母校を指すとはとても考えられない。 「何かお探しなのかしら」  鶴見先生はエレガントな小さなお顔に不似合いな、不織布のマスクをしてこちらにやってくる。恐縮してしまうが、いまさら手ぶらで帰るのも悔しい。 「あの、実は、昔、学校に文芸部があったと聞きまして」 「文芸部? ああ、ありましたよ」 「どんな部活だったのか知りたいと思っていて」 「まあ。そうなの。私ね、昔文芸部の顧問だったのよ。文芸部についてお知りになりたいの」 「……鶴見先生ですか?」 「そうよ」 「英語の藤澤先生に、先生のことを伺ってきました」 「ああ、藤澤さんね。お元気かしら。教員室にはぜんぜん顔を出していないから」  そうか、この方も引きこもられているのか。同じ引きこもりでもここまで違うかといろいろ考えてしまう。いや同じにしてはいけない。教員としては引退されたということだから、ここに居ていただくことを周囲から熱く求められたがゆえの、正当で優雅な御隠居なのだろう。 「あれなんかどうかしら」  先生はそう言いながら壁の中ほどの棚に手を伸ばされている。あわてて駆け寄って、指さされる冊子を取り出す。埃をかぶって変色したその冊子の表紙にはレトロな装飾文字で「颯」と書かれている。 「『そう』?」 「『はやて』っていうのよ。文芸部の季刊誌だったの。まだ何冊もあるわ。届くかしら」  指示されるまま棚の一列を占める機関誌を全て棚から下ろすと、先生はそれらを机の上に広げて見せてくださる。 「……見ても?」 「もちろんよ。どうぞ。ここ、おかけになる?」 「ありがとうございます」  衝立をすこしずらして、椅子をすすめてくれる。小さなロッキングチェアーだ。恐る恐る腰掛けると、ふわりと体が浮いた。 「わ、わ」 「座り辛いかしら、大丈夫?」 「いえそんな、むしろ、こんなにくつろいでしまっていいんですか」  ロッキングチェアがこんなに居心地がいいなんて初めて知った。 「それは創刊号ね」  奥付を見ると、発行は戦後間もない。生徒の書いた文章に、戦後の焼け野原が普通に描写されていることに驚きを隠せない。巻頭には、当時の学園長の寄せたエッセイと、詩が掲載されている。作家研究に、詩論に、純文学小説に、超大物作家(文学史の授業で習うような面々)のインタビュー。生徒が書いたなんて、うそでしょと言いたくなるほど豪華なラインナップだ。 「クワイヤー以外のクラブは文芸部が初めてだったのよ。生徒も先生方も力を入れていたのね」    だがそんな「颯」も、時代がたつにつれて内容は軽いものになっていく。生きるとは何か、といった重い内容のものは消えて、ポップなもの、メロドラマ、ライトノベルや短編ファンタジーといったジャンルが増えていく。活字の密度も薄まり、余白に添えられたイラストの方に力が入りはじめる。 「イラスト部と合併してしまったのよね、確か。部員がいなくなって」 「そう……なんですね」  確かに平成になるとほとんどがアニメ絵の表紙なのだが、ふと、一冊の表紙に目が留まる。唐草模様の細かくて重厚なデザインが目を引く。その絵柄にどうしても惹きつけられる。 「きれいな表紙ね。たしかその号は……」  鶴見先生がぱらぱらと冊子をめくる。 「……ああ、やっぱり」  先生は冊子の裏表紙を開けて指をさす。  そこには、私の予想した通りの名前があった。
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