第二章 資料室

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4 表紙 「表紙、挿絵……夏目文」  声に出して読む。目が潤む。 「やっぱり、夏目さんの絵はいいわね。あなた、夏目さんに習っているのかしら」 「はい。美術部の顧問で……お世話になってます」 「あらそう。文芸部のことは夏目さんに聞いた?」 「いえ、あんまり、何も教えてくれなくて。だから調べに……」  鶴見先生はまあといって笑った。リアルにまあという声をあげる貴婦人を初めて見た。 「ほら、この辺りはどれも夏目さんたちの代じゃないかしら」  先生の取り出した数冊は、明らかに夏目の手による表紙絵だ。拙い小説たちに添えられた顧問の挿絵は、どんな作品に対してであれ、病的なまでに細かくて、はかなくて、美しい。  ソーサーとスプーンの震える優しい音がして、顔をあげると、鶴見先生が花柄のコーヒーカップを机においてくれていた。 「え……」 「よかったらどうぞ」 「わあ、すみません!」  慌てて起立すると、ロッキングチェアが弾みをつけて揺れてしまった。 「いいのよ、ゆっくりご覧になって」  先生はてのひらでカップを指して、ご自分も書き物机の椅子にお座りになった。上品にマスクを取って、少しずつお飲みになる。私もそっとマスクを取ると胸ポケットにしまい、ロッキングチェアに再び腰掛ける。こんどは浅く、かしこまって座る。 「おいしいです」  これは意外にも、顧問が出してくれたカフェオレと同じ味がする。 「インスタントでごめんなさい。マーブルかもしれないわ。よくかき混ぜてね」  コーヒーの粒とクリームの粉が、表面で溶けてまだら模様になっている。そんなところまで顧問のカフェオレにそっくりだ。  もしかしたら顧問も、昔、こうやって鶴見先生のコーヒーを飲んだのかもしれない。  私は、まだコーヒーなんてめったに飲まないけれど。おいしい淹れたてのコーヒーを、大人になったら日常的に飲むようになるのかもしれないけれど。たぶん一生このインスタントのカフェオレのまだらな味が、好きでいるのに違いない。 「鶴見先生、この号のこと覚えていますか」  鶴見先生は眼鏡をかけて、颯(第56号)を手に取った。 「夏目さんの絵よね」 「はい。これが一番最初ですか? 夏目先生の書いた表紙は」 「そうね、たぶん、彼女が中三の時の絵じゃないかしら」 「中三でこれですか……」  先輩方が筆を折りたくなるというのもわかった気がする。 「やっぱり学校の印刷機だとつぶれてしまってもったいないわ。あんまりきれいだから、印刷屋さんに回そうかって、迷ったのよ。夏目さんがいいっていうからこのままだったのよ。確か……」 「夏目先生の書いた小説はどれだったか、覚えてらっしゃいますか」  ペンネームを使っているものもあるが、基本的に作者名は伏せられていて、どれが誰の作品だか分からない。 「書いていなかったと思うわ。彼女はもっぱら挿絵だったのよ」  そうか。それは残念だ。とはいえ存在しなくてほっとしてもいる。 「これ、村崎さんの代ね。この年は本当に部員が少なくて。夏目さんに入部してもらって何とか存続したのよ。正式な部員でないお友達に寄稿してもらったりしてね、たしか大変だったのよ。あらやだ、ということは、ごめんなさい。じゃあ、まだ中二の時ね。この表紙、夏目さんが中二の時に描いたはずよ」 「中二……」  妬まれて美術部にいられなくなったというが。中二でこれを描かれたらそりゃ衝撃が走るだろう。藤澤先生が顧問をやけに褒めるのも、この時の神童ぶりが尾を引いているのかもしれない。 「なんでこんなものを、中二が発想できるんでしょう」  その後の二冊も美しいことには変わりがないが、この年の表紙には病的な凄みがある。 「そうねえ。やっぱり、色々とあった年だから……」  鶴見先生は表紙にそっと触れ、何か言葉をためらわれたように見えた。 「彼女の、お姉さまのことは聞いた?」 「あ、はい。生徒会長の?」 「そう。人を惹きつける力のある、伸びやかな、とてもいい子だったのよ」 「そう……らしいですね」  鶴見先生まで、生徒会長の姉の話かと、すこし、がっかりした。今は、顧問の話をしたかったのに。鶴見先生は私の顔を見て、ふと微笑んだ。 「あらもしかして、お姉さまのことは、夏目さんから直接聞いたわけではないのね?」 「え、はい」 「だったら余計なことだったわ。いつか夏目さんからお聞きになるといいわ」 「先生は、絶対話してくれないです」 「そう? そんなことないと思うわ」  鶴見先生はマスクをするのも忘れて、にこにこされている。私は再びそっとマスクをつけた。 「よかったら、これ、持っていかれる?」 「え?」 「これを持っていって、いろいろ聞いてみたらどうかしら。きっと私の知らない裏話も持っていらっしゃるわよ」 「いいんですか?」 「大丈夫よ。数冊ずつあるし、しばらく持っていていいわよ」 「ありがとうございます」  鶴見先生はいたずらっぽく笑った。 「彼女、照れそうね。でもどうぞ、お好きなように」  鶴見先生の言葉に甘えて、つい長居をしてしまった。下校時刻の放送が入り、びっくりする。 「長居してしまってすみませんでした」 「いつでも来ていいのよ。夏目さんにもよろしく。良かったら今度は二人でいらっしゃい」
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