11人が本棚に入れています
本棚に追加
5 収穫
持ち帰った四冊の「颯」を読みふけっているうちに土日が過ぎた。五十六~九号。読んでいてむずむずするような、乙女の妄想の炸裂した作品がほぼ大半を占める。顧問は挿絵しか描いていなかったらしいから、それらを読んでも特に顧問について何かを知った気にはなれなかったが、知りたいことの具体性は増した。
私が一番気に入っているのは五十六号だ。顧問が多くの挿絵を描いているのはこの号のみ。それ以降の号では、顧問が担当したのは表紙だけのようだ。五十六号のラインナップは、耽美小説二編、ペットの観察記録一篇、ショートショート一篇、寄稿文一篇。他の号より作品数が少ない。表紙絵と挿絵が凄みを放っている分、内容の軽さに拍子抜けしてしまう。
この時の部長は「村崎笙子」という人。その下がいきなり「夏目文」。部員は以上二名。特別協力として、「常盤明日香」、「吉田こむぎ」。この二人は編集を手伝うか作品を寄稿した人物だろう。
だれがどの作品を書いたのかは分からない。だが、顧問にとって重要な作品だと確信しているものが一つある。小学生の日記のような素朴な文体で、ひと夏の旅行について語る作文だ。寄稿とあるから、吉田こむぎか常盤明日香のどちらかが書いたのだろう。誰に見せるためでもない、備忘録のような作文。
主人公は友人たちと避暑地の別荘に出かける。電車に乗って屋敷にたどり着き、一夜をすごして、帰ってくる。描写は皆無で、登場人物たちの個性は全く分からない。彼らはRPGの村人のようにセリフを棒読みしている。
その棒読み集団の中に「絵の上手いBちゃん」を見つけた時、私は、エーミールのヤママユガをぬすみ見た少年のごとき喜びで震えながら、寝ころんでいた態勢を改め、正座で紙面にかじりついた。このBちゃんこそ、若き日の顧問のことに違いない。
深夜、主人公は、隣で寝ていたはずのBちゃんがいないことに気が付く。探しに行き、森の中でおばけたちと話しているBちゃんを見つける。友人と霊との交信を華麗にスルーする主人公はBちゃんに、なんだこんなところにいたのと話しかけ、Bのほうも、あ、○○ちゃんごめんごめん、と普通に合流し、寝床に戻り、翌朝、一同は楽しかったねと口々に言って帰っていく。
何を言っているかわからないと思うがこれが読み取れたことの全てだ。ヤママユガの情熱をもってしてもこれが限界だった。人の主観をありのまま写し取ったらこうなってしまうので注意しようという戒めになるような文章だった。現実と夢の境目がなく、無欲で疾走感にあふれ、難解だ。
だが凄いのは挿絵だ。絵を見ているだけで、こののっぺりした作文から、音と物語が湧き出てくる。言葉足らずの平和な文章の奥に、本当は恐ろしい森があり、満たされない憧れがあり、吹き抜ける風があり、差し伸ばされる誰かの手が潜んでいる。備忘録的な文章はむしろ、この絵のためのキャプションだったのかもしれない。
知りたいこと、聞きたいことが、振り回されたサイダーの泡のように募る。またはぐらかされるだろう。それでもいい。ただ一緒にこの本が見たい。
***
月曜は、夏季講習が終わってすぐ、顧問のいる美術準備室に急いだ。果たして美術準備室に顧問はいた。眠そうな顔でコーヒーを飲んでいる。
「こんにちは」
「来ましたね。荷物、そこに置いておきましたよ」
荷物のことはすっかり忘れていた。先週一緒に買い込んだ画材。今日の部活のために車で運んでもらったのだ。慌ててお礼を言う。顧問はあくびをして頬杖をついた。目の下の隈が、今日はなにやら一段と濃い。マスクもしていない。
「先生、マスクは」
待望の、三日ぶりの再会は、しょうもない質問から始まってしまった。
「……今日はここから出ないんですから必要ないでしょう」
今日は、というより今日も、である。さらりと引きこもりを宣言。
「それより、木曜はちゃんと帰れたんですか?」
「はい」
いつもの位置まで近づこうとするのを制止された。窓は開いているし、私は感染症対策の面で顧問のノーマスクを気にしていたわけではないのだが、一応一歩下がる。
「今日は、軽井沢からここまで直行されたんですか?」
顧問は眠たそうにうなずいた。目を伏せた顧問はその巻き毛もあいまって、棚上の大理石の少年そっくりになる。目を閉じたのをいいことに、顔をこっそり観察する。
ミルク色の鼻筋と頬が濡れたように光っていて、やはり自分と同年代にしか見えない。颯の発行年から年齢を割り出してはみたが、ぴんとこない。どこか不機嫌なのは、眠気のためだけでなく、私の嘘を根に持っているせいでもあるらしい。何線に乗ったのか、何時に家に着いたのか、家の人は心配していなかったか。めずらしく細かな質問をしてくる。
「こないだのこと、怒ってたんですか」
「怒りゃしませんが心配しますよ。一応都民であるあなたをとんでもない僻地に降ろしちゃったわけですし」
腕を組んで、すまなそうな、恨めしそうな、複雑な顔で私をにらみつけている。
「どうしてあんな嘘を」
「先生の最寄り駅を知るためですよ」
顧問は数秒間固まったのち、机に突っ伏してしまった。私の目的なんて分かり切っていると思っていたのに。今頃気付いたのだろうか。
「じゃあ、活動はじめます……」
ちょっと「颯」のことを持ち出す雰囲気ではなかったので、木曜に買った画材をもって、美術室へと退散した。顧問が帰ってしまわないかと常時準備室の方を気にしながら、二時間の活動を終えて、掃除報告書を提出し、部員たちを帰し、日誌を書きあげた。
「先生、終わりました」
窓辺の棚に頬杖をついて空を眺めている。部活のためだけに出勤しておきながら一歩も活動を見に来ないというろくでもない顧問。その飼い犬に、私と言う人間はなりはててしまったのだろうか。きちんと日誌を手渡すたびに、そんな疑問がよぎる。ほんとに改めてこの人なんなんだろう。よりによってこんな人に執着せずにいられない私ってなんなんだろう。
「先生、ちょっと、見せたいものがあって」
私は鞄から「颯(第五十六号)」を取り出した。
「え、なに」
「資料室で見つけて。これって先生が――」
「なんでそんなものを持ってるんですか」
顧問に言葉を遮られたのは初めてだった。
上目遣いに顧問の顔を見た私は、日の当たる川底に小さな鳥の影がよぎるように、ハシバミ色の瞳の奥が静かに変化するのを見てしまった。
顧問の声の震えが、私の目を覚ました。よく考えたらわかるじゃないか。顧問とこの本を一緒に見て、楽しく昔のことを教えてもらえるとでも?
顧問と私がどうしてそんな風になれるだろう。顧問は秘密を暴かれるのが嫌いなのだ。自分のことを語るのも、振り返るのも、きっと嫌なのだ。自分を情報にすることも、興味本位でそれを切りさばこうとする生徒のことも。だからこんな本まで探し出して過去をかぎまわる私のことは、大嫌いになるだろう。
顧問は音もなく作業机の上に腰を下ろした。椅子ではなく、机の上にすわって、うつむいたまま動かない。
「こんなのまであるんですか、資料室って」
「ごめんなさい」
私は本を手放して、作業机に置いた。言葉に詰まる。どうしてこんなに先生のことが知りたいのか、自分でも説明がつかない。
「それは……私の黒歴史を知ってしまったことへの謝罪ですか?」
「え?」
顔をあげると、顧問は真っ赤な顔をしている。
「誤解しないでください。私は書いてませんからね、あんなメンヘラ小説」
顧問の耳が、今までに見たこともないくらい赤い。人間の耳はあそこまで赤くなれるものなのかと言うほど赤い。私は「きょとん」である。
「これはね、この、ほら、村崎と言うやばめの先輩が書いたものですから。文芸部だって、単に私は無理やり……」
顧問と目が合った。非常に動揺させてしまったのは確かだが、怒ってはいないと分かり、不覚にも安堵の涙がにじむ。顧問が気にしているのはそこか。そこなのか。
「ごめん。取り乱してしまって」
「こちらこそ……なんていうか、相当な劇薬をお持ちしてしまったようで……」
顧問は両手で顔を覆い、そのまま顔と頭をぐしゃぐしゃと擦った。石鹸一つで全てを済ませようとする銭湯のお父さんみたいだ。頭はさらに空気を含んだ。いっそ後光に見える。
「で、何の話でしたっけ?」
「えっと……」
「これを見つけたってことしか聞いてませんね。すみません、話をぶった切ってしまって」
本題に入って、大丈夫だろうか。存在を知っただけでこの動揺ぶりである。内容の話に踏み込んだら、窓から飛び出していくんじゃなかろうか。
だがもう引き返せない。私は顧問の反応を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「実は私、この週末、ずっとこれを読んでいて」
言葉を選ぶ私の視界の隅で、再び声にならない声をあげて悶えている顧問。
「先生? 先生それは、どういう感情ですか」
「いや、それ第三者が読むに堪えるのかという……」
「続けていいですか?」
「……だ、だいじょうぶ……続けて」
「いろいろと知りたいことが出てきてしまったので、先生に聞きに来たんです」
「知りたいことぉ?」
サイコロを振って最悪な目を出した人のようなやけくそ感と絶望感ともじゃもじゃ感をみなぎらせながら、顧問は私の話に耐えている。
「この作品って、本当にあった話ですか?」
怪訝な顔をする顧問に、ページを開いて見せると、あああったかもねなどといいながらページを閉じようとする。私はもう一度「颯」を手に取って、矢継ぎ早に質問をする。
「えと、じゃあこのBちゃんて先生ですか? あと、このメンバーの誰がどれを書いたんですか? 先生の挿絵と表紙、どうして対になってるんですか? どうして中二でこんな絵が描けたんですか? こんなにうまいのに、どうしてこの号しか挿絵描かなかったんですか? あと、そもそもなんで文芸部に……」
はっとして「颯」から顔をあげる。斜め上に顧問の困ったような顔があった。私の手から、本はするりと抜き取られた。
「先生、こんなこと聞かれるの嫌ですか?」
恐る恐る目を覗く。顧問は私から取り上げた「颯」を背後に隠し、頑としてページは開かせまいとしていたが、目はおとなしくのぞかせてくれた。
「嫌に決まってるでしょうが」
かすれた声で顧問が言った。
「ですよね……」
「どうしてそんなことが知りたいの」
それが自分でもよく分かりません。でもずっと考えてしまうんです。不愉快ですか?
「不愉快というより、不思議でしかたないです」
日差しと風の強い日で、ガラス窓が、時折引き攣れるように揺れた。
最初のコメントを投稿しよう!