第三章 礼拝堂

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第三章 礼拝堂

1 生徒会長と人魚姫  入学式の日から、姉は輝いていた。    教室でのあいさつの後、廊下に一列に並ばされた私たちは、音楽ホールのようなところに連れてこられた。扉が開き、壮麗なパイプオルガンが鳴り響く。二つの扉からステージまで二列の赤絨毯のスロープが伸びており、その両脇には、すでに上級生たちが一堂に会していた。入場する私たちに向けて拍手している。一番前のステージ上手側の席にポツンと座っていた姉は、私を見つけるとすごい勢いで手を振ってまた拍手に戻った。何で一人であんな所にいるのかと思った。私が自分の席に着くと、姉は頭の先しか見えなくなった。  入学式は礼拝の形で執り行われた。開会の祈祷、讃美歌、聖書朗読、講話、新入生点呼。それらは形式通りに厳かに進められた。教頭がアナウンスし、宗教主事やら生活指導主任やらの話が続く。 「最後に、生徒会長からのあいさつです」  姉が、立ちあがった。私は口を開けたまま、姉が壇上に登っていくのを見つめていた。ステージに活けられた大きな花の前で立ち止まって、奥に座る校長に一礼する。中央に進み、プルピットに立つ。軽く揃えた手に原稿はない。マイクの前で、今度はこちらに向けてきれいに一礼した。にこりと微笑み、息を吐く。 「新入生の皆さん。ご入学おめでとうございます。新、生徒……」  姉が口を開いたとたん、後ろの席から絶叫が響いた。全新入生が振り向いた。姉を凝視していた私の視界は、一斉に黒から肌色に転じた。遅れて振り返ると、全校生徒が笑顔で歓声をあげている。姉の名前を呼ぶもの、がんばれと応援するもの、かわいいと叫ぶもの。その声と新入生たちの驚きの顔に、また笑いが起きる。 「新生徒会、かいちょ……」  姉がやり直そうとしているのが聞こえてまた前を向く。姉は真顔で続けようとするのだが、歓声にかき消される。なんだこれは。姉は大丈夫なのだろうか。姉は困ったように微笑むと、人差し指を立てた。会場は、すうっと落ち着きを取り戻し、くすくすという忍び笑いがさざめく。 「新生徒会会長の、夏目沙良です」  姉が生徒会長だということを、この時初めて知った。なにやら生徒を代表して新入生にスピーチをはじめた。クラスで打ち合わせ済みなのだろうか、時折会場から飛び出す息の合った掛け声。原稿なしで、まっすぐこちらを見渡す瞳、会場に満ちる笑い声。ぬくもり、尊敬、憧憬、励まし、愛情、親しみ。訓辞を述べた教員たちには与えられなかった、何か素敵なものすべてを、姉は生徒たちから惜しみなく与えられた状態で、私たちの前に立っていた。彼女がこれまでの学園生活の中で編み上げた温かな絆が、自然に会場を満たしていた。  一体、これからどうやってここで過ごしたら、あんなことができるようになるのか。圧倒されたまま、私たち新入生は、ステージを降りる生徒会長の姿を見送った。 * * *  そのような生徒会長の妹であることは、隠したい。この国の全妹がうなずくに決まっていると思うのだが、姉には通じなかった。 「あ、あれ文ちゃんじゃない?」  部活見学に回っている最中のことだ。テニスコートの前は素早く通り過ぎたかった。目ざとく誰かが私の名前を呼んだのが聞こえた。私は近くにいた同級生の後ろに隠れる。遠くにいる姉が、友達から指をさされた方に手をかざし、背伸びしている。 「文だ! やっときた! おーい、あやー!」  テニスウェアを着た生徒会長が、キラキラした笑顔で手を振り、駆け寄ってくる。案の定、一緒にいた同級生たちは硬直している。 「文ちゃーん。久しぶりー」  その後ろからついてくるのは何度か家に遊びに来ていた人かもしれないが、よく覚えていない。私は目を泳がせながら会釈する。ぞろぞろとテニス部員たちが近寄ってくる。私たち新入生は、子羊のように身を寄せた。 「あのね、これ妹。アヤっていうの」  子羊の群れは一斉にこちらを見た。そして私のそばから一歩ずつ下がっていった。 「沙良の妹?! うわ、ちっちゃいんだけど!」 「運動神経抜群なんだよ!」 「部活体験していくでしょ?」  姉の友達が群がって来て、私たちをテニス部に案内する。 「いやテニスはちょっと……」  通りかかっただけなので、と断ろうとする私を、同級生たちが押しのけた。さっきまでテニスなんか興味ないと言っていた皆が輝くばかりの笑顔でぞろぞろとテニスコートに誘導されていく様は恐怖の原風景として今も心に傷を残している。    教室に戻ると、姉のことをしきりに聞かれた。さして親しくない人にまで囲まれた。そんなことより文化系の部活見学はどうするのかと聞くが、皆もう関心を示さない。どうやら大半は、テニス部への入部を決めたらしい。  姉とは一度、腹を割って話す必要があるだろう。  帰宅中、通り雨があった。同級生宅に寄り道している間も、姉に話すべきことをずっと考えていた。腕組みをしながら帰宅し、姉の部屋のドアを開けた。ノックをする習慣などない。一人でいるとばかり思っていたが、客がいた。 「あ、これが噂の妹さん?」 「おかえり、あやー」  私の視界の中央には、白い肌を輝かせながらベッドに腰掛ける人魚姫がいた。 「だれですか」  アヤメかバラか、砂糖菓子か。見ているだけで甘い香りが漂ってくる。姉の散らかった部屋から浮き出すように、すっと座っている、それが江島だった。何も知らなかった私の目に、最初に焼き付いた江島の姿だ。 *  *  *  人魚姫の足は小さく、泡のように白い。「つちふまず」が引き締まって優美な曲線を描く。爪は桜貝のように薄くほんのり光る。 「おいおい、聞いてる?」  ベッドの下で胡坐をかいた姉が、身を傾けて、私と姫の足の間に割って入る。 「ようするに、学校ではアヤに話しかけたらだめってこと?」  言いながら、姉は困ったような顔で江島を見上げた。江島は姉に合わせて、ふっと笑った。私は砂糖菓子の眩しさになかば痺れた頭で、そういうことではないのだと訂正した。日本人たるもの、その場の状況、互いの立場をわきまえてふるまうことが、いかに大切かということについて、語り合いたかっただけだ。家では姉と妹、サラとアヤで構わないのだが、学校では生徒会長とただの新入生であることを、もう少し配慮しあおうじゃないかと。 「よくわかんないけど、まあ、わかったよ。なんかごめんね?」  私は、別に謝ることではないといって姉の肩を叩いた。話は済んだのでこれでと立ち上がる。ドアを閉めた瞬間、中から、こらえきれなくなったように笑いだす声が聞こえた。  江島は生徒会の副会長だった。打合せしながらの帰り道、雨に降られて、寄ったらしい。引きとめられ、我が家で静かに夕食を食べ、帰っていった。姉のこれまでの友達にはあまりいないタイプだった。というか、江島のような人はそれまでの人生で見たことがなかった。  私はじっと眺めるだけで、ほとんど口がきけなかったが、姉との会話の端々から、江島が美術部であることを知った。姉はしきりにアヤは絵がうまいのだと江島に話して聞かせていた。姉はなんでも私のことを買い被って人に言いふらす癖があるのだ。私は黙って江島の反応を待った。江島はおそらくお世辞だろうが、ぜひ見てみたいと言って微笑んだ。  私が部屋にこもり、どれを見せようかと思案している間に江島は帰ってしまった。江島が帰った後、机に向かい、入部届に美術部と書いて親の印をもらった。昨日まで、テニス部と美術部にだけは入らないと思っていたのに。  美術部となれば立体物やら細工やら、絵を描く以外もさせられるだろうし、時間内で仕上げなくてはならないのだろう。そういったことには気が乗らなかった。それに、家族に気兼ねしていた。  母は私が絵を描くことを怖がっている。父が、叔母を変わり者と呼んでいるのも知っていた。田舎でアトリエを開いて暮らしている叔母のことである。私も姉も、物心がつく前からよくそこで絵を描いて過ごした。姉は、中学受験のために大好きだった絵をやめたが、私はやめられなかった。  絵を描いていると、空腹も時間も排泄も呼吸も何もかも忘れ、すべてが止まったようになる。描くという空ろな作業が、私の性質にあっていたのだ。調子に乗ってやりすぎて、倒れたことも何度かあった。倒れた拍子に顔にけがをしたりしたので、親は私が絵を描くことを怖がった。叔母だけは私の絵が好きなようだった。  だから絵を描きたいなら本来、一人になるか、叔母のもとに行くかの二択だった。美術部に入るつもりはなかった。江島と出会った衝撃で、幼いなりに考えていたゴタクは全て吹き飛ばされたわけだが。  * * *    江島がいなければ、私は美術部には入らなかったし、そこを一年で辞めることも――あるいは、姉と叔母とを亡くすことも――なかった。そこを一年で辞めなければ文芸部に入ることもなかった。季刊誌の挿絵を描かされることもなかった。  「颯」を目の前に突き付けられて真っ先に頭をかすめたのは、彼女たちのことをどう語ろうということだった。全身の血が頭に上って、おそらく、ひどい顔をしていたに違いない。他愛ない挿絵だが、それを見るだけで絶句する私は、これを描いていた時の霧の中を、まだ抜け出せていないのだ。  部長はとても苦しそうで、それは私にも覚えがあるのだ。部長はどういうわけか、私について知りたいと言っている。応えてやりたくても、私には語る言葉がない。生来うつろな性質なのだ。だから絵なんか描いているのだ。  私を占める様々な面影は、振り返るたびに、姿を変える。自分のことだけ語りたくても、つかみどころのない彼女たちのことをきちんと語らなければ、本当の私を曝け出すことにはならない。  
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