第三章 礼拝堂

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2 要塞の地図  毎朝、全校生徒が聖書と讃美歌をもって礼拝堂に集まり講話を聴く。教室から礼拝堂間の往復は、何故だか知らないが黙って歩かなければならない。  その亡者の列が、前方で騒がしくなった。壁を指さして騒いでいる。教員が険しい顔をして生徒を鎮め、立ち止まらずに進めと促す。気になって通り過ぎざまに見れば、成績順位表らしきものが廊下に貼りだされている。教員たちが貼ったに決まっている。騒いでくれと言わんばかりの場所に、自分たちで貼って自分たちで怒っている。  全校で行われた英語力テストの成績だ。礼拝堂に行く途中の廊下にこれ見よがしに掲示されてある。順位表には上位三十名ほどしか掲載されていない。当然のごとく高校生ばかりだ。  その頃、私には「江島」という字が薄紅色に浮かび上がって見えるまでになっていた。目が勝手に動いて、かなり上の方にあるのを見つけた。活字になった名前を見るだけで胸がきしんだ。姉の名前がトップにあると人に言われ、半信半疑で帰り際に探した。  江島とはあの雨の日以降、一度も話したことはなかった。部活で姿を見ることはあっても、生徒会で忙しい江島と中一とでは、まるで接点がなかった。江島の声も、絵も、性格も、何も知らないまま夏になろうとしていた。  夏休み、美術部の合宿があったが私は行かなかった。叔母の家で過ごすことになっているからと当然のように辞退した。  文化祭の準備は、夏の合宿で八割方終わらせることになっている。部員は半ば強制的に参加するものらしい。同輩にそれとなく教えられた暗黙のルールも他人事のように聞いて、堂々とふるまっていたものだ。合宿にこそ参加しないが、どうせ一人でいても描くのである。 「合宿来られないんだね。残念」    その声は水銀のように耳から奥の心臓にまで達し、内臓は銀色の葡萄に変化してぎしぎしと震えた。合宿を休むという私のために、なぜか江島が説明に来たのだ。  手渡されたのは、合宿のしおりと文化祭のテーマの一覧だった。夏の間に仕上げておくように説明を受けたが、何も頭に入らなかったので、詳細は後から同輩に尋ねた。  合宿に行けば江島と近づけるのに。当時の私にはその発想がみじんもなかった。江島について考えてしまい、見てしまいはするが、彼女自身を知りたいわけではなかった。  柄にもなく張りきったその夏は、江島から受け取ったテーマを、来る日も来る日も描いていた。毎日夢中で書いたのに、テーマが何だったのかはもう思い出せない。「要塞の地図」だったろうか。  江島が見ることが分かっている絵を描く自分は、礼拝堂の装飾に全技術を捧げる無名の職人であり、信者であり、虚ろであり、自分の存在を認められたいとか、気を引きたいとか、そんな言葉は絵筆を持てば、心をよぎりもしなかった。  夏休みが明けて持ち寄ってみた時、私の絵は明らかに浮いていた。似て非なるもの。誰もそこまで求めてないのだよということは私でも分かった。フランケンシュタインの後悔。生み出してしまった怪物を抱え、恥ずかしかった。怪物は額縁の中から手を伸ばし、私を恨み、奇異なものを見る視線に耐えながら、江島を求めていた。  顧問は怪物をコンクールに出した。醜い怪物が白鳥になって戻ってくると、文化祭会場の最も目立つところにそれは飾られ、江島たちの作ったオブジェを覆い隠した。  江島の瞳が意味を帯びたのは、おそらく、その頃からだった。はっきりと覚えているわけではないが、今は、そう考えた方が自然だということにしている。  いやいやながらも、この年代のこどもたちと接して無駄に年を重ねていると、小さな私や、小さな江島を見かけることがある。何度も現れる彼女らは、そろって心が非常に狭く、脆い。私と江島も、認めたくはないが、そうしたこどもたちの一人だったのかもしれない。  確かなのは、夏休み後、江島を盗み見る機会が減ったということだ。それは、盗むことができないという意味だ。視線は必ず捕らえられた。  江島の瞳の中で、私は怪物になり、愛人になり、嫌悪され、誘惑され、憐れまれ、憎まれ、ほとほと疲れ果ててしまった。なお、江島とは一言も口をきかない。私は江島と一言も口をきかないまま、ただただ見つめ、憧れて、そして疲れて、離れたのだ。江島は何も悪くない。ただうつくしく存在していただけだ。見つめ返されることに耐えられなかった。  ある日、何かのグループ分けの最中だった。決を採るというので手を挙げた私を、江島が振り返った。江島も手を挙げていた。  部員たちの頭越しに、江島の目にじっと捕らえられながら、私はなぜここにいるのだろうと思った。私が消えれば、きっと江島も自分も楽になるだろうということに、初めて思い至った。  数秒のことだ。部長はまだ挙手した者を控えていたが、数に入る前に私は手を下ろした。江島は白い右手を挙げたまま、前を向いた。  それが部活に行った最後だ。ばかばかしいほど自己完結的な初恋だった。
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