第三章 礼拝堂

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3 風の匂い  江島の目を見て、部活をやめた。翌日は、終礼後すぐに学校を出た。  秋晴れだった。遠回りして、誰も通らない外人墓地の方へ向かった。  風が吹いて、それはちょうど、夏の軽井沢と同じ温度と匂いで私の体を包んだ。気付けば、こんな私になりたいと言った姉の言葉の意味を、考えていた。 ✳︎ ✳︎ ✳︎ 「あやになりたいなあ」  と姉は言った。私がもっぱら江島のために要塞の地図を描いていたあの夏休みのことだ。  姉が来たとたんにアトリエは騒がしくなる。合宿をさぼって夏中ずっと叔母の家にいる私とは違い、姉は、夏期講習と部活と生徒会活動で忙しく、三日ほど滞在してまた帰る予定だった。三日間で買い物に温泉巡りにサイクリングに散歩にトンボ取りまでするという。 「あやになりたいよ」  いい加減しつこいので、ばかにしているのかと聞いた。そうではないらしい。将来を嘱望される姉は、予備校からは露骨に、担任からもそれとなく、T大受験を勧められたそうだ。光栄なことと思うが、私の座る椅子の後ろでなんやかんやと愚痴ばかり言っている。  受けてみればいい。落ちたら勧めた者のせい。合格すれば義理は果たせる。嫌なら行かなきゃいい。そう言うのだが、姉は納得がいかないらしい。とにかく悩みたいだけだと判断して私は絵を描き続けていた。  じっとしているのに耐えられなくなった姉に連れ出され、自転車で木陰を走り、森の奥の滝を見に行った。姉の自転車は風のように速く、私は運動不足の中一だ。樹木のトンネルの奥、冷たい木漏れ日のさすなかに、片足をつき、サドルにまたがったまま私を振り返るようにして待っている。表情が見えるくらいまで近づくと、颯爽と笑って走り出す。結局私は休めないのだ。    滝を見ても姉は飽くことを知らない。知らない道にもひらりとハンドルを切る。キャンバスの前では粒子だった光も、姉と走れば波動になって私を飲み込む。  どうやってたどり着いたのか分からないが廃墟にでた。快晴の青空と、颯の吹く丘が広がる。二人で座って眺めた。姉の笑顔を見た。もう一度行きたいと探し回るのに、あれ以来、二度とたどり着けない。  さびれた塔。見上げると、明るい海の底にいるような気がした。姉は不意に、自分も絵を描くのが好きだったと打ち明けた。それなのにどうしてT大を目指しているのだろうかと、私に尋ねてきた。私は風が海の水になって私たちの呼吸となり、雲となり、樹々と混ざりあってうねりをあげているのを夢中になって見つめていた。  その日の風の匂いが、今でも時折、私に触れる。すると、すべてが甦る。姉の問いかけも、自分の虚ろな憧れも、すべてだ。 「あやの目がほしいと思ってたんだよ。あやみたいに、物事を見ることができたらいいのにって。寝て起きたら、あやの体に私の魂が入っていればいいのにって、本気で思ってた」  不思議なことを言われ、私の意識はループした。沙良の魂が、私の体に入る。沙良の魂は私の細胞に溶け込む。私の脳細胞の記憶を使う。となれば、沙良の人格の記憶はどこへ行くのだろう。 「まあ、もののたとえだから。そんなに深く追究しなくていいよ」  姉は自分で振った話題を、相手の反応を見て引っ込めてしまう癖がある。頭の回転の速い者に散見される、若干失礼な癖である。 「受験って本当に嫌いだな。みんながぴりぴりして。私の失敗で、みんなががっかりする」 「しないよ」 「するよ。あやは小さかったから分からなかったと思うけどさ。お母さんもお父さんも、すごくがっかりしてたんだよ。私の中学受験の時。第一志望落ちてさ」  中学受験が本当に怖かった、もう受験なんかしたくないと姉は言った。 「本当は推薦受けたいんだ」  水仙を受けとると何か問題でもあるのかと尋ねた。普段の成績が良かったり、校内で優れた業績を残したりした生徒を、教員のほうで大学に推薦する制度があるということを姉は面倒くさがらず私に説明した。 「それはいい。受けない手はない」  成績がトップで生徒会長である姉なら、推薦を受けるに何の問題もないと思った。 「でもT大ねらえって」 「T大へ推薦してくれるっていうことなの」 「T大への推薦なんてないよ。受験しろってこと。」 「なんだ。推薦があるとこにしか行きませんって言えばいい話じゃないか」  姉は少し笑った。 「そう単純じゃないんだよ」  推薦枠は少ない。一般受験でも合格できる生徒にその枠を取らせてしまうことが、問題になっているらしいと姉は言った。合格実績が欲しい大人を失望させ、同級生にはうらやまれる。 「うらやむ人はばかだからほっておくといいと思う。日頃から頑張った人が最後に楽できるのは当たり前じゃないか」 「いや、そんなことはないんだよ。みんな必死なんだから、一番必要な人が受けるべきなんだよ」 「沙良だって必要なんでしょう」 「私、必要かなあ」 「私にきかれても」  もちろん一般受験をしたって、どこかしらに受かると思うが、受験がしたくないというなら推薦とやらを受けるにしくはなかろう。姉にはこういうところがあった。天真爛漫に見えて、本当は、異常なほどの気遣い屋だ。肝心な時に、欲しいものを欲しいと素直に言えないのだ。 「合格実績なんて大人が勝手に気にしてるだけでしょう」 「それはそうなんだけど」 「そんなこと気にしているなんて、こまっしゃくれたガキでしかないよ」  姉は小さいころ、大人に「こまっしゃくれたガキだ」と言われて憤慨していた。私はときどきそれをネタにからかうのだ。いつもの様に大口で笑うかと思ったのに、姉は口をつぐんだ。 「一番行きたかった学校にはいけなかったけど、この学校を好きになろうと努力したんだ。勉強も、部活も、なんでも一生懸命やろうって決めたんだ。それでね、今は本当に、大好きになったよ。」  姉のそんな気持ちを聞いたのは初めてだったので、動揺した。ちなみに私は、何も考えずに受験をした。おそらくぎりぎりのまぐれで入学したのだろうと親は見ているし私もそう思う。勉強も部活も適当だ。 「だから、T大受験して、喜んでもらえるなら、やっぱりしようかな」    姉の思考回路は理解不能だった。痛々しかった。そんなくだらないことで悩んでいるのは、全く沙良らしくなかった。流されるにも程があると思った。学校に入ってからずっと思っていたことを言った。 「普通にしてて大丈夫だよ。みんな普通にしてる沙良が好きなんだよ」  安心させたかったのだ。しかし姉は泣き始めた。自分がT大を受けなかったら、恩知らず、打算の女などとあだ名され、今までやってきたこともすべて推薦のためだったのだと曲解され、一気に嫌われるかもしれないというようなことをふすふすと泣きながら繰り返すので、私はばかばかしくなった。こんなばかなら確かに受験なんか到底無理だから大人しく推薦とやらをもらった方が身のためだと心から思う。 「あんたはばかかね」  颯が吹く。姉のまっすぐな髪を撫で、輝かせ、また空に消えていく。  誰かにそんな風にそしられたのかと聞けば首を振る。だが分かるのだという。言われなくたって分かる。目を見れば、私に何を望んでいるのか、私をどんな人間だと思っているのかぐらいは、と姉は言った。 「ばかだねえ」 「そうだよだからあやになりたいっていってるの」  ばかじゃなければわたしになりたいとはおもわない、ということか。それは私に対する挑戦だろうかと絶句したのち、確認すると、姉は泣くのも忘れて必死で訂正した。だがそんな言い訳よりも、聞きたいことがあった。 「沙良が本当にやりたいことは何。それが無いのが一番良くない」  すると沙良は、綺麗事ばかり並べた。私は首を振った。そういうのはいらない。沙良自身のやりたいことが見えてこない。だからふらふら迷うのだ。人にも譲ってしまえるのだ。沙良の優しさにいつも庇われている身としては複雑だったが、それを聞かない限り、埒が開かないところに来ていた。  姉は淡い声で、じゃあ、と言った。何重にも蓋をした、ものすごい恥部を曝け出すかのように。 「……絵を、やりたいっていったらどうする」  姉は自分のつま先に向かってそう言って、私を見た。私は首を傾げた。別にどうもこうもしないと思った。 「ならやろう。こんなことしてないで、すぐ帰って一緒に描こう」  姉は泣きながら笑った。私は姉の笑顔が好きだった。調子に乗って、いろいろしゃべった。姉は笑い続けた。 「なんなら私が代わりに行こうか、T大。別に勉強嫌いじゃない」  姉は爆笑した。そこは笑うところではなかった。 「あや、この風、本当に気持ちいいね」 「うん」 「ここの空も、雲も、樹の匂いも、本当に好き。言ってること分かるかな」 「うん」  沙良の言っていることはよくわかる。分かりすぎるくらいわかる。この叔母の田舎にしかない匂いが確かにあった。今この時しかない風なのに、静かな既視感覚があり、これは何度も私たちに触れたことがあった風なのだ。言いたいことは分かる。  目を閉じると金色の風は海鳴りのよう。風は樹々に深く指を差し入れてなぶる。私と同じように、沙良も感じ取っていたのだと、うれしかった。  * * * *  振り返れば、いろいろなことに思い当たるのだ。  姉は、叔母に憧れていた。だが叔母は、私の唯一の理解者で、擁護者だ。私には正直、絵しかない。私があの日の江島の様な目で姉を見たことがないと言い切れるだろうか。私の隣で絵を描いてはならないと、姉は思ったのではないだろうか。姉は優しい人間だった。何も言わなくても、察してしまう。気付かないふりをして、道を譲り、いかにも偶然のように、別のもっと楽しい道を見つける。そんな人間だった。  あるいはこんなことも思う。私にとって叔母は、偏りのある魂を無条件で受け入れてくれる存在だった。だが、姉にとってはどうだったろうか。いびつなところのない、まっすぐに整った姉の眩しさを、あの変わり者の叔母は、受け入れてやれていただろうか。江島が私を見たように、叔母は姉を見たのかもしれない。叔母自身も気がつかないうちに。姉はそれきり、アトリエに来なくなったのかもしれない。  あの頃、そういったことには思い至らなかった。見えてはいても、拾い上げはしなかったのだ。独りよがりの絵を描く時と同じに。  いつも、額縁の外にいた。隠れて全てを選別していた。画面の調和を汚すものなら、たとえばそれが自分であっても容易く消すし、消せると思い込んでいる。  満たされない憧れを抱えたまま、夏はその周辺を、シャボンのようにぐるぐる回っていた。あの日の帰り道。シャボンがはじけ、秋風が吹いてみると、優しい姉が、訳もなく慕わしかった。  
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