第三章 礼拝堂

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5 むらさき  気付けば中二になっていた。鶴見先生の古典の授業中だった。なんでも、絶滅の危機に瀕している部があるという。現在部員は中三生徒が一名のみ。  誰か入部するものはないかと言う。まだどこにも所属していなかったり、部活をやめたりした人はいないかしらね、などと言う。こむぎが私を振り返った。  夏には文学散歩と称して合宿のようなこともするという。去年は修善寺で云々。かつては平泉で云々。確か鶴見先生は文学史の話からここまで脱線したのだ。  こむぎが大きな目をさらに見開いてこちらにサインを送っている。私は無視した。文芸なんて興味がない。作文は大嫌いだった。入るはずがない。  村崎が文芸誌を抱えて中二の教室にやってきたのはその翌日だった。女子高校生の平均身長よりやや小さいくらいの雪見大福に、うねる黒髪を乗せて紺のセーラー服を着せたら村崎になると思ってくれ。ただ雪見大福とちがうのは、中にバニラアイスなどは詰まっていないということだ。表面はまさに米粉と上新粉を蒸して捏ねて丸めたうえに粉をまぶした感じだが、中にはどす黒いマグマのような妄想が固太りして詰まっている。溶けて消えるなどと言うことはない。  常に噴き出してくる内なる言葉のマグマに追われて彼女が歩くと廊下の皆が道を開けた。本を読んでいても授業を受けていても突然言葉が吹き上げてきて彼女を駆り立てる。シューベルトの魔王が鳴り響く。もうだれも止めることはできない。彼女は秘蔵のノートを取り出して妄想を書きなぐる。父のなだめも馬の蹄もぼうやの叫びを止めることはできない。村崎はそうして書き上げた妄想を文芸誌に刷り上げて全校生徒に配り歩いていた。  文芸部に入ることはないと改めて思いを固める。マグマ大福の存在は知っていた。だが彼女が文芸部だとはこの時まで知らなかった。鶴見先生には悪いが現在の部員がこの村崎だけではさすがに。  村崎は文芸誌をクラス全員に配布した後こむぎを呼んだ。こむぎは屈託なくそばに行く。なにやら親しげに話していると思えば指でこちらをさす。と、村崎が近づいてきた。思わず目を伏せる。  村崎の足は私の前でずしりと止まった。夏目さんとはあなたですかという。そうだというと、村崎は自分の名を名乗り、以後お見知りおきをと言った。そして藪から棒に、水曜と金曜が活動日なので放課後談話室に来いと言う。  意外と大きくてくっきりとした二重の目と、ラテン系な唇がふうふうと言語をしゃべっている様子を私はぽかんと見ていた。返事もなにもしそびれた。こちらが状況を理解するより前に村崎は一礼し、ターンし、教室の床を踏みしめながら廊下へ出て行った。  入れ替わりにこむぎがやって来て、どうだったかと尋ねる。どうもこうもない。逆に今のは何だと尋ねる。村崎とは幼馴染だという。文芸部に入りたがっているが勇気を持てずにいる私ーーそんな私はこむぎの脳内にしか存在しないーーを紹介したらしかった。  面白そうじゃないかという。だったら自分が入ればいいようなものだが、そうもいかないと言う。自分は幽霊部員ではあるが一応ソフト部に所属している。だから代わりに入ってくれと訳のわからないことを言う。面白かったらこむぎも入るという。身勝手この上ない。  放課後、断る為に談話室に出かけて行った私に村崎は諸々の事情を語ったのち、自分が進学できなかったら文芸部を頼むと頭を下げた。待て気が早い。  村崎は当時中三、内なる文学に目覚めて以来、先生方の降り注ぐ言葉は一文字たりとも彼女の世界に入り込む隙はなくなった。かたかたと音がするという。夜な夜な、彼女も一応勉強しなきゃと教科書とノートを開くのだが、脳内で言葉がかたかたと渦巻いて耐えられないので、机に向かった数分後にはパソコンを取り出しキーボードを叩きまくっているという。そんな毎日がたたって今では成績はどん底に落ちた。ちなみに彼女は弁護士事務所の跡取りである。親は必死に勉強をさせたが教科書は彼女に妄想の糧と、ああいえばこういう論理とを与えただけだった。  三者面談で担任に、転学先の検討はしているのかと真顔で尋ねられたという。このままの成績では高校に上がれないというところまできていた。義務教育の終わりは自動的にやってくるが、高一の始まりはやってこないという。何のために中高一貫校に入れたのかと親は嘆き、本人も少しは悲しかったがどうすることもできないという。いや勉強をしろ。  さしで向かい合ってみると村崎の饒舌圧は並ではなかった。こちらの頭にあったはずの断りの言葉が村崎の注ぎ込む言葉の渦にのまれて迷子になった。  かろうじて、私は文章など書けないから入る気はないというと、書かなくてもいいから所属して挿絵を描けという。絵の腕前は一目置いているとのたまう。去年の文化祭で例の怪物を見たそうだ。文章は自分が山ほど書くので足りるから、その挿絵と表紙を描くだけでいいという。  私の仕事は「絵を描くこと」だと聞いて、もやもやが生じた。だが、村崎の懇願に押し流されて、まあ挿絵くらいならと、面倒だから描いてやることになり、気付けば入部届を書かされていた。怖い。  村崎から解放されて、一人になってから、もやもやについて考えた。そうして初めて、姉と叔母を亡くして以来、一枚も絵を描いていなかったことを自覚した。  数日後には後悔していた。村崎の原稿は完結したものもプロット段階のものも全て、黒百合に血に痛みに耽美な描写が渦巻いており、むず痒いことこの上ない。  入部に際しては親の捺印がいるのだが、親はなにも反応しなかった。葬儀以来、私への関心は全くなくなっていた。姉の話はする。何を見ても姉に繋がる。何を聞いても涙に繋がる。これでは消えたのは姉ではなく私なのかと錯覚する。  こむぎは私の付き添いという名目で文芸部に入りびたり、村崎と軽口をたたき、私には分からないラノベやアニメの話をし、文学散歩にもついてくるつもりで行先はどうするかなどと言っている。  さてその文学散歩だが、母親に夏期講習の予定をびっしり組まれてしまった村崎と、複数の部の顧問をかけ持ちする鶴見先生の都合とが合わず、中止となった。あっさり受け入れた私とは異なり、村崎とこむぎはいつまでもぷりぷりしていた。
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