第一章 美術準備室

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第一章 美術準備室

1 談判 「うける……」  これは友人の言葉ではない。嘆かわしいことに、私の部活の顧問の言葉だ。美術の非常勤講師とはいえ、彼女も一応教師である。 「あるある。どんまーい」  テンション高めな古語を淡々と数珠を繰るごとくにつぶやいて、人をおちょくっている。三日月目の縁には、くっきりとカラスの足跡が刻まれている。マスクの下では、にやにやという形容が最もふさわしい表情をしているのだろう。  美術部の部長になってからというもの、今までは存在すら知らなかった美術準備室なる部屋に、毎日通う羽目になった。この教師がほとんど教員室にいないためだ。  教員室は怖いとのたまう顧問を私は本当に情けなく思う。校内における引きこもりだ。なぜ教師になったのかと問い詰めたくなったことは一度ではないのだが、絵で食べていくのは大変なのだろうと推察し、いつも言葉を飲み込んでいる。  顧問は大抵ここにこもる。私も必要に迫られて毎日尋ねる。そのうち、用がなくても一応顔は出すようになってしまった。顧問はキャンバスの前に腰掛けて、描いていたり眺めていたりする。意識はキャンバスにどっぷり浸したまま、耳先だけで私の話を聞いている。入浴中の貴族議員のようなそういう態度もいかがなものかとは思うが、聞いていないわけでもないので、事足りはする。 「それで、タイガクだって?」  タイガクというパワーワードが聞こえた気がしたが、ちょっと何を言っているのかわからず、どもって尋ね返す。顧問は珍しく声を出して笑った。 「怠け学って書くほうのタイガク」 「え、そんなのあるんですか」 「……担任から、説明なかった?」  担任からは軽く注意があった程度だった。本当に申し訳なく思っているが、悪気はなかったと伝えて詫びてきたところだ。担任は怒るどころか、慈悲深くも私の顔を覗き込んで、体調を気遣ってくださった。私の担任は、眠る屍の荒野を粛々と歩む授業を幾千と繰り返してこられた、心身ともに仏像のようにまろやかなクリスチャンで、この顧問とは大違いの人徳者なのである。 「まあそれならよかった。日頃の行いが良いから注意で済んだんでしょう」  日頃の行いといえば時間ごとに場所を変えて雲を眺めているくらいだから、さほど良いとは言えないのだが、わざわざ申告することでもないので黙っていた。 「で?」  何の用で来たのかと聞かれてはっとする。つい、いつもの調子で世間話をしていたが、今日はちゃんとした用件があった。 「夏の合宿の件なんですが」 「合宿?」 「はい。今回は軽井沢に行こうと思うんです。それで……」  顧問のいぶかしげな視線を無視して私は続ける。 「二泊三日のプランを作ってきました」  何か言いたげであるが、私は敢えてレポート用紙を手渡す。とりあえず目を通してはくれる。 「にはく……みっか……」 「例年そうでしたよね?」 「例年は……まあね」  ふいと紙を遠ざけ、すぐ脇にある窓辺の棚に置いてしまう。非常勤なのにとか、なんで私が一人でとか、ぶつぶつ言っている。いつもの愚痴である。情けないことだ。この顧問は教師のくせに、生徒である私に大人の事情を訴えようというのか。 「軽井沢って言ったって、宿は……」 「以前お世話になったペンションに確認しました。予約は可能とのことでしたよ」  顧問は微かにうめき声をあげながらくるくる回った。ここが美術準備室でよかった。顧問の座っている黒い丸椅子は三六〇度回転できて、おしゃれなバーにでもありそうな代物であるが、いい年をした大人が回転すると異様な雰囲気を醸し出すので、人前では断じてやらないでいただきたい。ここが教員室であればとめるが、今は放置した。 「忘れていると思っていたのに……」 「忘れている? 誰が、何をですか」  顧問はそばにあったレトロな地球儀をむやみに高速回転させた。セピア色で古地図が使われているようだから実用ではなく静物画にでも使うのであろう。ダ=ヴィンチの部屋にありそうな模型やら、石膏像やら、花瓶やら。フクロウの剝製まである。海賊船みたいな部屋だ。 「今から予約なんて、普通取れないはずじゃ」 「……流行り病の影響ですかね」  流行り病だか何だか知らんけどさあ、などとひっ迫したペンションの経営者や医療現場の方々にはとても聞かせられないセリフをこぼしている。 「予約は先生にしていただかないといけないので、お願いします」  ペンションの電話番号とアドレスを渡そうとしたが、椅子にしがみついたまま受け取らないので机に置いた。 「……」  何やらごにょごにょ言っている。 「ペンションは取れても、学校から許可が下りんでしょう」 「え? なんでですか」  都合の悪いことはすぐ学校のせいにする。この顧問の癖である。また始まったと軽くいなす。いなした瞬間、ふと、顧問の前で泣き崩れた先輩の背中がよみがえった。 「なんでって、あなた」 いやな予感。 「流行り病の影響で」 「ええ! なんでですか」  いやな予感が芽生えたとたんに的中し、思わず地球儀をはたいてしまった。禿げ頭みたいな音を立てたそれを顧問は私から取り上げ、なでさすりながら窓辺に移動した。 「いや宿泊は無理でしょ……このご時世で」 「たった二泊ですよ? 新幹線で小一時間ですよ?」 「校長が許さんでしょう」  感染症対策が難しいので宿泊を伴う活動はすべて禁止になると思うと顧問は言った。  確かに去年はそうだった。合宿には行けなかった。それどころではなかった。二月末から六月まで、全校生徒が登校禁止だったのだから。七、八月は夏休み返上、新しいクラスに慣れて、通学して授業を受けるのでいっぱいいっぱいだった。  去年の部長は大変優秀な方で、念入りに合宿先をリサーチし、文化祭の準備プランも綿密に練っていた。それが未知の流行り病のために丸つぶれになるなんて筋書きを誰が予想しただろうか。小規模化し、親も友人も招待せずに行われた文化祭。よく言えばアットホームな感じで盛り上がりはして、短期間の準備にも関わらず今までにない感染症対策というおまじないじみた趣向をきちんと練りこんだ行事構成を成し遂げられた先輩方の創造性と忍耐力を尊敬こそすれ、しょぼいなどとは誰も思わず口にもしなかったが、それでも部長は不完全燃焼だったのだろう。  引退式の最後に顔を出した顧問になんと声をかけられたのかは知らない。それまで笑顔だった部長が、急に大粒の涙をこぼしてしゃがみこんでしまったのには驚いた。あの穏やかな部長を泣かせるとはよほどのことだ。私には想像もつかないような無神経さで、逆鱗に触れたか、古傷に塩をなするかしたのだろう。 「え、なに? なんで私をにらむんですか?」  現在も授業時間は短縮されているし、部活動の時間も短く制限されている。お弁当もしゃべらずに前を向いて黙々と食べさせられている。だがそれを異常とも思わなくなってきていた。出入りの度に吹きかけるアルコールもルーティーンになり、マスクも顔の一部になり。だからすっかり油断した。合宿も行けるものと思ってしまった。確かに私も迂闊だった。ただ微かな希望があるにはある。 「毎日通勤ラッシュの電車で登校させてるのも校長ですよね? だったら軽井沢に行くくらい許可してくださるんじゃ……」 「どうでしょう」  ダメだって言われると思うな、聞いては見るけどと言いながら、顧問は再びキャンバスに沈んでいく。  西日を浴びて、ぼさぼさ頭をプランクトンのような埃と一緒に漂わせている顧問は、金色の水槽の中にいる人のよう。そろそろ話が通じなくなってくる頃合いだ。 「合宿なくなったほうが、嬉しいんですよね? 先生は」  嫌味のつもりで言ったのだが、顧問の目はまた三日月になっている。私はやれやれとため息をつく。 「とにかく予約お願いします」 「うん、まあ、万が一、あれしたらね」  返事が適当になってきた顧問の背後に回ってキャンバスを覗き込む。  ガラス細工に光が乱反射したような、不思議な光景が広がっている。とても抽象的だが、緑色の光景だと分かる。よくも鉛筆だけで色彩が描ける。紙は茜色に染まって細かな陰影が浮かんでいるのに、そこにあるのは透きとおる風の世界だ。 「こんな西日が差したところで描けるんですか」 「今は描いてないよ。見てるだけ」  歴代の先輩方が、顧問のキャンバスは覗くなと言い伝えている。まあネタだろうが、筆を折りたくなるとか、石になるとか聞き及んでいる。私は別に絵の道に進む気はないから、平気でこうして覗き込んでいる。 「予約はしておいてもらえますか。校長にダメって言われても、内緒で行けばいいんですから」 「どうして生徒って、教師にハイリスクノーリターンなことばかりさせようとするんだろう」 「私たちが可愛くないんですか」 「お給料なしの引率はありえないということを理解してください」  これだから引きこもり教師にはあきれるのだ。ここが準備室で、相手が私一人だからこんなことを言うのだ。まあ私の要求もひどいものなのでお互い様かもしれない。教員室でこんな会話が成立したらこの学園も終わりだろう。 「無償の愛という言葉をご存じないですか」 「申し訳ないけどそれは、私に求めないでください」  ちなみに本校は、パンフレットを読む限り、開校以来たゆまずキリストの愛に基づく教育を行ってきた伝統ある学び舎である。また先輩方の情報では、この顧問は本校の卒業生である。今の問答で、どちらかがデマである可能性が高まった。 「引率じゃなくて、プライベートな旅行だと思えばどうです?」 「他所の子を十人二十人連れて、プライベート旅行。壮絶ですね。マイケルジャクソンかハーメルンの笛吹きに頼みなさい」  部員は全部で二十八人だが、顧問はおそらく覚えていないので適当な数を言っているのだ。 「何人までだったら連れて行ってくれますか」  顧問はもう返事もしない。指で絵をこすって、影を調整している。顧問がキャンバスに触れ、周囲の金色の濃度も増すと、私はそろそろ退散しようかという気になる。 「旅行に行きたいなら家族に頼みなさい」 「家を出たいから頼んでるんです」  顧問は腕を組んで天を仰いだ。私も答えてから、腕を組んで、自分のあごの下の皮をつまんだ。家を出たいなんて、今まで考えたこともなかった。親子関係は良好だ。言葉の綾だ。口先が勝手に反応しただけだ。 「ちょっとそこ座りなさい」  指さされた椅子に掛ける。 「深呼吸」  深呼吸をさせられた。そのまま椅子をカラカラ押されてドアの前へ。とうとう美術準備室を追い出されてしまった。
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