結 アトリエ

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結 アトリエ

 顧問の車に乗ったとき、日はとうに沈んでいた。鞄の中で私の携帯が鳴ると、顧問は、出なさいと言った。父からだった。ビデオ通話に切り替えさせられ、そこが車の中だと分かると、父の声は怒気を帯びた。私は慌てて「先生」を映した。父の携帯画面では、顧問は男に見えたらしかった。後から考えるとかなり笑えるのだがその時はそれどころではなかった。顧問はややショックを受けた様子で車を路肩に止めた。  電話を顧問に代わる。声も低いからまだ男だと思われているようだ。顧問を問い詰める父の声が漏れ聞こえて私は恐縮しているしかない。ややあって、母が父から電話を奪い取る声。母はうちの顧問を見知っていた。普段より数段高めのキーで母が非礼を詫びている。文化祭で姿を見たという。引きこもり顧問が展示会場にいることなど相当レアなことだと思うが、見知っていてくれて本当に助かった。 「実際こちらは大変迷惑しておりまして」  などと、すんなり形勢が逆転している。 「一応様子を見に来たからよかったようなものの……ご家庭ではどのように……」  引きこもりのわりに自分の権利を主張するにあたっては口が達者になるという習性は、いつでもどこでも誰に対しても同じのようだ。両親は先ほどの無礼と娘の至らなさを平謝りしている。 「私のアトリエに今日は一泊させますが、それでよろしいですか」  一泊させます。アトリエに。一泊させますがそれでよろしいか。いいに決まっている。いいに決まっている。電話に向けた顧問の言葉に、私の心臓が息を吹き返す。 「……はい。ええまあ、ご迷惑でないと言ったら嘘になりますが」  その頃には両親と顧問の声にも笑いがにじんでいた。 「この時間ではもう……はい。いいえ、では失礼いたします。はい、明日私の車で送り……いえ、乗り掛かった舟ですので。はいではどうも。はい、ごめんくださいませ」  電話を切った顧問に抱きつこうとしたが冷たく突き放された。それからアトリエに着くまでの間、顧問は私をこんこんと叱り続けた。初めは心から反省していたのだが、一日中外にいた疲れもあり、だんだん眠くなってきて、ほとんど朦朧としてきたなかで、あなたが主役の朝ドラを考えてごらんなさいという件では一体全体何の話だと思ってちょっと目が覚めた。こんなわがままな主人公、誰も応援しないだろう、全国民が呆れかえって視聴率も最低になること間違いないという。ごもっともなのだが本気で叱っているのか疑問になってくる。もう顧問も叱りつかれていたのかもしれない。 「先生の絵が見たいです」  私は先生の横顔に言った。美術館の前で拾われた時からずっと、マスクはしていない。私は真面目だった。心の底から、それを願った。 * * *  通された部屋に、絵は一つしか飾られていなかった。これは姉だと顧問はいった。人物画ではない。夏の景色だった。  在学中に亡くなったと、教えてくれた。  額縁の中には水のような風が吹いており、遺された者の心を奪って、空へ舞い上がる。  顧問は私に、寝るように言った。  私はあてがわれた部屋の窓を開けた。静かな虫の声と、夜の森の空気が流れ込む。青い月明りに照らされた部屋の隅の暗がりにも、絵が置かれているのに気が付いた。埃を被ったその一群にも、私は遠慮なく手を伸ばす。掛け布の下から現れたもののうつくしさとこわさで、私は動けなくなった。  風景なのか人なのか、獣なのか怪物なのか。歪んだ鏡の中の景色だ。森の中の子鹿のように、青い月光の中で見え隠れする誰かの面影。  私はあの子のことを思い出す。あの子のことは結局、何もわからない。それなのにあの子の面影は私をねじ曲げ、私のかなめになろうする。彼女はもう、いないのに。  青い鏡の世界の奥、私の背後には、いつしか顧問がやって来て、耳元で囁いていた。私は絵からは目を離さずに、顧問の声を聞いていた。  夜が明けた。月はない。窓を開けていたからひどく寒い。誰もいなかった。脳裏に宿る物語の全ては、たぶん言葉で聞いたのではなかった。  裸足のまま階下に降り、画材だらけの部屋を見つけた。昨日は入らせてもらえなかった部屋だ。顧問は、古びたソファでブランケットを被って眠っている。私はそのなかに猫のように潜り込んだ。温かい。顧問の眠気の中に溶け込んでいく。  いつだったか、描けばかくほど物の形がわからなくなっていくのだと顧問は言っていた。物の形がわからないから、描くんじゃないですかと私は思った。色や、線や、点や、凹凸で、何かつかめそうでつかめないものたちの残像を。  起こさないよう目だけを動かして、壁に立てかけられたものも、床に転がされたものも、イーゼルにかかったものも、どれも等しく大切に、一つ一つじっくりと眺める。それらの絵に、私は自分勝手な物語をつける。聞きたいことが山ほどあった。  顧問がかすかに動いた。先生の絵に物語をつけていいですかと私は言った。顧問はそのハシバミ色の目をゆっくりと開いて、私の目をじっと見つめた。ご自由に。と顧問は言った。私から毛布を剥ぎ取りながら背中を向け、自分一人を温かそうにくるんで、再び眠りに落ちていった。  つかめない世界の残像に、私はことばでそっと触れ、訳もなく、ただ先生に、いつかそれを見せたいものと思った。
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