第一章 美術準備室

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2 中止 「どうなりましたか」 「何が?」  何が、じゃなかろう。壁一面に作りつけられた棚に並ぶ石膏像と、私は顔を見合わせる。彼らだって呆れ顔だ。私たちの白い視線にも気付かず、今日も顧問は椅子に座ってキャンバスを眺めている。 「合宿……」 「やっぱりないそうですよ」 「そうですか。疑うわけではないですが、一応私が直接校長に確認してきてもいいですか」  どうぞどうぞという手振りをする。 「ありえないの一点張りでしたよ……もう超怖かった」 「こうやって大人たちは生徒の翼を折るんですね」  私はマスクの中で口を尖らせた。どうせ見えないが。顧問はマスクの下でニタニタしているのだろう。こちらはお見通しである。 「先週の時点で校長から合宿禁止令が出ていたらしいんですよ」 「......そうなんですか」  真顔で告げ真顔で聞いているが、聞いている方は内心赤面である。間抜けな話だ。昨日の問答は何だったのか。一週間前に決定済みなら、いまさら校長に談判しに行っても遅いではないか。  間抜けな部だと思われただろう。いや、すべては私が悪い。うちの顧問などに頼らず、担任や、他のまともな顧問のいる部の部長たちから、もう少し情報を得ておくべきだった。 「こないだの教員会議で言ってたらしいんだけどね。ほら、私、非常勤だから伝達を忘れられがちで……ひどいよねえ」  知ったことではない。日頃から引きこもりすぎているから存在を忘れられていたのに決まっている。私は踵を返した。 「もう行くんですか」 「合宿がないなら文化祭の作品作りも校内でやるしかないので。計画練り直してきます」  顧問は黙っている。こっちを見ているのか絵の中に戻ったのか。ねぎらいのひとつやふたつあってもいいものだが。 「……だ……」  はい時間切れ。何か言いかけていたがドアが閉まってしまった。わざとではないがタイミング悪く。だが開けて聞き直すほどでもなかろう。  準備室は美術室に繋がっている。扉を一つへだてただけなのに、ひんやりと冷たい絵の具の匂いの美術室はもうちゃんと「学校」然としている。顧問のいる準備室は、取り残された海賊船のように、私の意識から切り離される。  美術室を抜け、廊下へ続くドアを開けた。廊下は白い光に溢れている。  学園生活最後の年が半分消えた二つ上の先輩のことも、学園を背負う立場が肩書きだけで終わった一つ上の先輩のことも、かわいそうだと散々思ってきたが、自分たちもまだまだかわいそうな青春を送ることになるらしい。仕方がなかろう。大人が変わらないなら、ずっと私たちは可哀想なままなのだ。  廊下では、流行り病の対策も忘れて、中学生の群れが子犬のようにひっついて駆け回っている。高校の者からすると、その若さが眩しい。  美術室は芸術棟三階の奥にあり、中学生が使う棟の北側に位置する。高校の校舎までは、中学棟の中央から渡り廊下を渡り、木造の古い校舎を抜けなくてはならない。日参するのも慣れたとはいえ、疲れた心には結構長い道のりである。  中学棟の白い廊下の中央には天窓の光が差している。天窓の下は、廊下をくりぬいたような吹き抜けだ。吹き抜けのぐるりを胸の高さほどの白い塀と木製の丸ベンチが囲っている。真下の階にも、同じように丸い木のベンチがあって、覗き込めば、天窓や廊下から柔らかく集められた光が、たまり水のように揺れているのが見えるのだった。  中学の頃、この場所が一番好きだった。私たちはよく、この天窓に一番近いベンチに膝をつき―― 「まちなさいまちなさい」  塀から身を乗り出していたら、顧問に腕を掴まれた。  脳裏を漂っていた甘美な何かが、シャボンのようにパチンと消えた。引きこもりの顧問が廊下まで追いかけてくるとは意外である。 「泣くことはないでしょうが」 「は……泣いてはいないのですが」  顧問は少しひるんだようだった。なんだか申し訳ない。 「うんまあ、涙はないようですね」  流石にこの歳で、そしてこのような、階下を覗き込むような滑稽な体勢で、涙を出したりはしない。ご期待に沿えず申し訳ない。私は去年の部長とは違う。  涙の一つでも流せば、合宿は不要不急だとおっしゃる校長を説得して、部員たちの親にも安心してもらえるだけの万全の感染対策を練った上で、宿と新幹線の手配を進めたり、軽井沢の爽やかな緑の中をスケッチしながら歩く私たちを優しく見守ったりしてもらえるのだろうか。  この顧問に限ってそれはないだろうし、月影先生や安西先生にならともかく、この顧問に泣きつくくらいなら潔く合宿を諦める方を選ばせてもらう。 「ちょっと悲劇のヒロインになりきっていたみたいだから、追いかけてみた」  悲劇のヒロインごっこをする趣味があるなどと、この顧問に少しでも思われていたことが心外すぎて震える。今更合宿に行けないくらい、なんだというのだ。去年から予定していた海外留学が流れた際も別に泣いたりはしなかったというのに。 「そんなひどい顔して出ていったら流石に心配というか」  そんなひどい顔とはどのような顔であろうか。自分で自分の顔は見えないので説明していただきたい。額と目だけでひどい顔と判定され、そのまま口に出して形容されることの方がよほどショックである。ぼさぼさな頭とぐちゃぐちゃな白衣でうろついて、いちいち腹立たしい一言をふんだんに発射する顧問である。 「……大丈夫ですか?」  ほわほわと、二回、かすかに毛根が揺れる感覚がした。 「……」  間抜けなほど弱い力で、顧問が慰めを試みていると思ったら言葉を失った。誰かの手で、私の髪が揺れたのは何年ぶりだろうか。いやカットに行ったのは二ヶ月前であるのだから二ヶ月ぶりだ。落ち着け自分よ。 「欧米では失礼な行為に当たるらしいです」  無言で、私のあほなセリフを打ち消すように、微風のような、ほわ、ほわ、は続いた。  安西先生にも月影先生にも校長先生にもなれず、子供もなく、むしろ自分が全校生徒の誰よりも子供っぽくて、結婚もせず、ネバーランドのフック船長みたいに、海賊船じみた部屋に閉じこもっている。他に、もっと出来ることがあるはずなのに放棄して、それをして欲しがっている人にも、救いを求めているかもしれない相手にも、こんな素っ頓狂な対症療法しかできなくて、でもそれをじっと繰り返している顧問を、私はかわいそうに思った。泣いていいレベルで。 「ごめん」  何に謝っているのかわからない。もうどうでもいい。どうでもいいことの極め付けとして、天窓の光で透かして見ると、顧問の目がとても淡いハシバミ色だということに、この時初めて気がついた。  
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