第一章 美術準備室

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3 既視感  掃除の生徒が帰った後、鍵をかけるか迷う。そして結局開けておく。美術部の部長が、どうせ来るだろう。毎度毎度、開けに行くのも面倒だ。  部活を任されたばかりの頃は、どの部長もはりきる。引継ぎのあった高一の一月から進級した四月あたりまでだろうか。どの部長も初めは頻繁に相談に来る。そして、顧問は役に立たないと知る。そこまでの成長を見守るのが私の仕事だ。ゴールデンウィーク前には、来訪はやむ。だから普通に鍵もかける。  だが今年はそうもいかなかった。七月になっても、美術室の鍵をかけられずにいる。また来たのかとこちらが呆れても、平然として何かしゃべっている。放っておくとキャンバスを覗き込んだり、部屋を探索したり、飽きもせずその辺をうろついている。  その部長が合宿に連れて行けとうるさいので、一応校長に尋ねてみた。訴えのあった翌朝のことである。結果はやはり否だった。  教員室に来た用はそれだけだった。だがなかなか立ち去れずグズグスする羽目になった。校長席は教員室の真ん中にあり、人目に立つのだ。校長の前を辞去した私は、教員たちに捕まった。次々話しかけてくる。姿がないのでお伝えが遅くなったとか云々。皆、声がでかい。自信満々で、目が笑ってない。これだから教員室は怖い。  教員室の私の机は、来るたび何故か散らかっている。生徒が出しに来たらしい作品やレポートが幾つも乗っている。業務連絡のメモやポストイットが所せましと置かれている。目を通していると、通りかかった事務員さんが、レターボックスを見た方がいいと言う。壁際に設置された教員用のレターボックスを見に行くと、一つだけプリントがはみ出してはち切れんばかりのケースがある。私のものだった。会議資料、パンフレット、給与明細。相当溜まっている。  がさごそとまとめた過去のプリントの束を持って帰ろうとするところを、さらに呼び止められた。確か化学の先生だ。「彼女の様子はどうでしょうか」という。  彼女って誰ですかと尋ねて、名前を聞いてもピンとこない。しばらくごまかして、探る会話。生徒の名前を把握していないということはなるべく隠したい。いくつかのあやふやな返答の後に、今年の部長のことだと分かった。先生はその担任だったようだ。  適当に、相変わらずよくしゃべっていますよと答える。すると先生は笑う。彼女をおしゃべりだなんておっしゃるのは、夏目先生だけですと言う。  確かにそんなに人と騒ぐような性質ではなさそうですが、と言葉を改める。それでもなにやら話していて……しゃべらなくても、ずっと居るのでうるさい気がするんでしょうと正確を期す。  先生は仏のような顔でうなずいて、先生にはずいぶんお世話になって、と笑った。そして、今後もよろしくという。さらに付け足して、彼女の様子で気になることがあったら知らせてほしいと言うので、何か問題のある生徒なのですかと尋ねた。 「いえ、そんな、何も何も。真面目で優秀な生徒ですよ」 「怠学だっていったら怯えていましたよ」  え? と先生の細い目が、丸くなる。そしてふたたびくしゃっと縮む。 「ああ、あれはね。珍しかったですね。まあ今回は注意だけで……なんでも必死の形相で走ってきたそうですから」  先生はくすくす笑っている。あの無表情の部長が大慌てで走っている様子は、想像すると確かに笑える。 「ただ、少し気になって」 と言葉を濁す。優しそうな先生の目が、少し揺れる。私は黙って担任の言葉を待つ。生徒のプライバシーもある。担任とはいえ、口外してはいけないこともあるのだろう。非常勤講師の身では、聞いていいことといけないことがあるらしい。時々こんな表情をする専任の先生方には慣れている。  そこへまた新たな教員が現れた。ぬっと私たちの傍らに立った。私への業務連絡の順番待ちだ。仏のような担任は、申し訳なさそうに会釈をすると、またお伺いしますと言って去っていった。    朝から教員室に寄ったせいで、思わぬ時間をとってしまった。根城に帰ると、まもなく始業の鐘が鳴った。せっかく淹れたコーヒーを飲む時間がない。でも一口だけ飲む。やれやれと立ち上がり、美術室に出る。生徒は揃いの白衣にマスク姿で、授業の開始を待っている。目だけきろきろして、ちょっと面白い光景だと未だに思う。  放課後になって、掃除の生徒が帰った頃、やっぱり部長は訪ねてきた。 「どうなりました」  ノックもそこそこにドアを勝手に開けてこちらを覗いている。 「何が?」  ここは完全に隠れ部屋で、廊下に面したドアはない。美術室内の、黒板横のドアから入る小部屋である。私を探しにきても、美術室をノックして、窓からちょろっと覗いて諦める人が大半なのだが。部長は律儀にここまで来る。 「合宿……」  ごちゃごちゃした作業机の脇を抜けて、私が向かっているキャンバスの手前までやってくる。 「やっぱりないそうですよ」  なるだけあっさりと告げる。喜色がにじまぬように。相手は私の即日対応に感謝もなく、本当か、などと疑っている。  ちらと部長の様子を見るが、相変わらず表情が読めない。今年の部長の顔を、全部は見たことがない。目と髪型で、辛うじて部長と判断している。マスクの下で、笑っているのか怒っているのかなど、知る由もない。だから目だけは、よく見るようにしている。  苦しんでいるなと、思う。  そうでなければ、こんな所にばかり来ないだろう。今年の部長は、これだけ人の部屋に入り浸っておきながら、なかなか目を合わせようとしない。それでも、苦しんでいるのは分かる。その目さえなければ、私はとっくに鍵をかけ、居留守を使っていただろう。  このときは、なんだか部長は悲しそうだと思った。しかし合宿がなくなったことがそんなに悲しい理由がわからない。  部員たちといても、大抵ひとりで無表情をしているじゃないか。共同生活が得意そうにも見受けない。枕投げをしたり女子トークをしたりする姿も想像できない。  後輩たちのためだろうか? 正直、合宿がなくなって、そんなに悲しむ部員がいるようにも思えない。そりゃ少しはぶーたれるだろうが、あとは勝手に誘い合って遊びにでも行くだろう。  私にはまったく理解できない。でも、部長は悲しそうだ。そして今日はもう退散するようだ。思わず声をかけた。 「もう行くんですか」  振り返ったその目には、奇妙な既視感があった。合宿がないなら仕方ないので、計画を立て直すという。怒っているわけでも、拗ねているわけでもなさそうな、淡々とした声。下手な慰めなども要らないようで大人しく出ていった。  絵筆をとるが、集中できない。奇妙な既視感。いつどこで、あんな目を見たのだったか、全く思い出せなかった。そのくせ不遜にも、自分はその目の正体を知っているのではないかと思う。何をそんなに苦しんでいるのか。  ドアを開ける自分、声をかける自分、絵を放り出して追いかける自分の残像が、カードのように散らばってまた回収される。何をしても、情けない結果に終わるだろう。私に何ができる。多分あの目は知っている。でも知っていたって、名前を付けたことがない。どう話せばいいか分からない。去る者を追う、中身のない言葉でがんじがらめにするという教師の役が回ってくるけど、演じるたびに吐きそうだ。  でももう、絵には集中できそうもなかった。絵の中ではなく、頭の中で、目の奥で、鼻の奥で、いつか見た、眩しい緑の風が、海鳴りのように響く。  何心なく、のろのろと、薄暗い美術室を出る。  隣の棟へ向かう真っ白い廊下の中央、井戸を覗き込む猫のようなのが見えた。  虹色の反射光。重たい足がまわる。久々に走った。吹き抜けから落ちそうになっているから、慌てて引きとめた。  数日後。部長の担任から、「彼女の最も親しくしていた友人」が、去年の秋に亡くなったことを聞いた。私は会議報告に小さく載っていた名前を思い出した。去年の秋、泣きじゃくりながら礼拝堂から出てくる高一の生徒たちを見たことも。  腑に落ちた。確かにあれは、見たわけではないが、よく知っているものへの既視感だった。  あの頃の私も、きっとあんな目をしていたのだ。
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