第一章 美術準備室

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4 カフェオレとメロンパン    夏休みに入ったばかりのある昼下がりのことだ。  夏期講習を終え、いつものように美術準備室に行く。顧問は絵の前にいなかった。作業机の椅子に腰かけ、ぼんやりしている。キャンバスに向かわないぶん、猫背に拍車がかかっている。近寄ろうとしたら戸棚を指さす。何かとって来てほしいらしい。パン屋の赤い袋が入っている。持って行ってやる。顧問は、中からメロンパンを取り出して私の前に置いた。 「なんですか?」 「あげる」 「賞味期限切れとかですか?」 「ちがう」 「なんで片言なんですか? 二日酔いですか? カンタ君の真似ですか?」 「まあ座って、お食べなさい」  とりあえず座るには座ったが、落ち着かない。顧問は頬杖をついて動かない。 「なんですか」 「メロンパンですよ」 「いや、なんのおつもりですか」  ちらと顔をうかがうと、すわった目でじっとこちらを見ている。無意識にハシバミ色を確かめようとした私の視線をさらにからめとるような目で、交わったのは一秒足らずのはずだが、頭に血が上って耳が熱くなった。 「なんで急にメロンパンなんか食べさせようとするんですか」 「メロンパン、なんか? 食べさせ……?」  顧問は目を見開いて手で口を覆った。 「ひどい。喜ぶかと思ったのに」 「あ、いやその」  すんすん鼻を鳴らしながらメロンパンを回収しようとするので慌てて阻止した。  くれるというならもらう。別にメロンパンを侮ったわけでも嫌いなわけでもない。いきなりメロンパンがもらえるというのはなにか裏があるとふんだだけであって、メロンパンに罪はない。 「食べたかったって言ってたじゃん」  過去形ダブってますけど。もしかしてこの間メロンパンが売り切れていてショックを受けたという私の話を覚えていたのか。たしか数週間前だとおもうがそれはもはやほとんどの細胞が新陳代謝を経て今とは別の私の欲望だ。  そうだ、人の欲望というものはころころ変わる。このへっぽこ顧問にこんなにどぎまぎする日が来るなんて、微塵も予想しなかった。  正直なところ、最近、準備室に来るのが少しつらい。俗に言う恋愛物質が、脳の誤作動により大量生産されてしまうためである。  一度反応が始まってしまえばもうどうしようもない。それは二次元でも三次元でも人外でも同性でも対象になりうる。恋愛物質が、現実の身近な人物を対象に排出され始めると厄介だ。女子校においてはことに滑稽ですらある。どう見ても病んでいるとしか言いようのない先輩後輩の追っかけあい、そして友情と言うにはねちっこすぎるようにお見受けする嫉妬の渦の数々。  これまでは、人ごとであった。対象の姿を見るだけで冷や汗を流したり奇声をあげたりする同級生を憐みの目で見ていたが、まさか自分の身に降りかかるとは。まさかこんなぼさぼさ頭の猫背の引きこもり教師を対象としてドーパミンが排出されてしまうことになるとは。情けなさすぎて誰にも相談できない。  これは治療法のない流行り病のようなもので、四年経てば激しさはかなり減るという。四年。ずいぶん長い。残りの学園生活が狂ってしまう。  こうやって見つめられたりしようものなら見られているであろう範囲がびりびりしびれて心拍数の上がるのを必死に隠さねばならず、現在、おそらく心臓に激しい負担がかかっている。これが誤作動だと、病による過剰なシナプス反応のせいだと分かっているからなんとか大丈夫なのだ。  メロンパンに話題を戻す。 「飲食禁止なのご存知ですか?」  流行り病対策に疎い顧問のために確認する。夏休み中、校内での飲食は禁止。そのため部活も二時間以内に制限されたのだ。 「そうなんだ」  念のために説明すると、目をぱちくりさせている。やはり知らなかったようだ。 「それ意味あるの」  真顔で私に聞いてくる始末。それは管理職にでも聞いてくれ。意味不明なおふれが出る前に校長にちゃんと詰め寄っておいてくれ。 「私に聞かれても」 「大変だねえ」  他人事のテンプレのようなことをのたまい、伸びをすると、席を立った。 「コーヒー飲む?」 「あの、だから飲食は……」 「黙っていれば大丈夫でしょう」  黙っているというのはしゃべらずに食べるということか、口外するなということか。  マグカップが目の前に置かれた。カフェオレである。顧問はいつもの窓辺に寄りかかり、自分のカップの湯気を吹いている。 「今日はどうしたんですか。かつてないおもてなしでびっくりなんですが」 「え、そうですか?」  顧問はカップに口をつけたまましばし動きを止めた。怪しい沈黙である。  こんなのは初めてだった。顧問と二人で何かを飲んだり食べたりするということが。そしてはっとした。是即ち顧問と二人きりの状態で素顔になるということだ。初めての事態である。カップを抱えたまま途方に暮れる。 「これは一種のセ……パワハラなのでは」  顧問はコーヒーでむせた。 「なんで?」  変なことを口走ってしまった。 「なんでもないです」  だがこの恥ずかしさは、なんだ。マスクをとってものを食べるということが、腹が立つほど恥ずかしい。口を露わにしてものを齧れとは、私のドーパミン異常を鑑みれば、セクハラレベルの要求である。マグカップ。口をつけていいのか。カフェオレの香りに誘われてマスクを脱いでしまうなど、とんでもない節操なしではないのか。逆光でこちらからはよく見えないが、窓を背に立つ顧問の方は、私の下顔部を見放題ではないか。 「もしかして猫舌ですか」 「ちがいます」 「氷いる?」 「ちがいますって」 「真夏なのに気が利かず……」 「だからちがいますって」  しつこくてしかたがないのでマスクをつまんでさっと飲んでさっと戻した。  しばし沈黙があった。鋼の理性にものを言わせて視姦に耐えつつ何とか一口飲むことには成功したが、二口目は顧問の隙を突くしかない。 「ねえ、飲むの素早くない?」 「国が推奨する飲食のマナーです」 「うそー。すごいー。もう一回やってー」 「馬鹿にしてますか」  見れば、顧問は腹を抱えて震えている。声を出さずに笑うのはいいが、コーヒーをこぼしそうである。 「なんなんですか」 「ごめんごめん、ちがう……」 「なにがちがうんですか」 「教室ではみんなそれやってるんですか?」  まだ肩を揺らしている。一番ばかばかしいのはこの顧問である。こちらは恥を忍んで唇と顎とを露呈してまで義理で飲んでやったというのに。 「厄介なご時世ですね。部長さんとお茶する日常はいつ戻るんだろう」 「部長さんとお茶する日常?」  聞き捨てならないセリフに詳細を促す。聞けば、顧問は歴代の部長たちとは時々こうしてコーヒーを飲んでいたというのだ。どおりで、やけにスムーズにカフェオレが出てくるわけだ。つまりこれは、歴代の部長が口をつけたマグカップ。 「私は初めてですよ?」  この残念な顧問のことだ。私と歴代の部長との区別がついていない可能性もあるので一応言っておく。  引きこもり顧問のことだから、歴代の部長にもそっけなくしてきたんだろうと思っていた。だが、人付き合いの苦手な顧問も、顧問の端くれ。部長とは毎年それなりに向き合っていたのだとマグカップは語った。忌々しいのでマスクは取ってがぶりと飲んだ。インスタントの粒がミルクの上で筋を引く。  顧問は私の正面に座った。絵を描く時と同じ目つきで、こちらを見ている。途端に頬が熱くなる。おそらくその目が今回の病の引き金なのだ。 「そう言われれば確かに。あなたの顔、初めて全部見ました」  いや初めてじゃないから。中一の時から部員だし、中三の時は授業であなたに美術習ってましたから!  とは言い返せなかった。むかつく心とは裏腹に顔が赤くなってきたのでカフェオレをあおることにした。過去はともかく今現在、私という個体を認識されているだけで若干嬉しがっている自分がいる。  マスクの中で赤面する私をよそに、呑気な顧問は赤い袋の中からもう一つパンを取り出した。ハムとレタスが挟まったクロワッサンだ。 「暑くて食欲なくてぼーっとしてたところに部長さんが来たからちょうどよかった」  ようやく事態が把握できた。食べきれないから手伝えというだけ、他意はないらしい。 「午後は補習ですか」 「夏期講習のことですか。いえ午前だけで終わりました」 「じゃあこれ食べて、帰りましょう」 「まって先生も食べるんですか?」  もしかしてこっちがよかったかと、フィルムで包まれたクロワッサンを差し出されたが断る。そうじゃない。向き合って食べるのはよろしくない。私は顧問の隣に移動する。一人分くらいの間隔をあけて。 「黙食のルールはご存知ですか」  顧問には、食事中は話しかけない、顔は見ないという堅い誓いをさせた。それから顧問も私も前を向いて黙々とパンを食べ、時折顧問はコーヒーを、私はカフェオレを飲んだ。 「気まずいんですけど。教室では本当に皆こんな……」 「すぐ慣れますよ」 「とはいえ、でしょ?」 「は?」 「実際はしゃべってるんでしょ」 「や、みんな黙々と」  建前ではない。みんな前を向いて自分の席で、本を読みながらもくもく食べてる。 「昼休みの教室、皆こんな……?」  正面のガラス戸に映る顧問は、憐れむというより、不思議そうに、静寂の教室を想像してみているようだ。  私は静かな食事も好きだ。誰とくっついて食べるか心配する必要もない。均等な孤独。みんな一人なら、だれも寂しくはないのだという発見があった。 「食べ物に集中すればいいんです」  普通にここのメロンパンが好きだ。軽くてさくさくした外皮をまずは真ん中から割って、粘っこくとろけるように裂けていくきめ細かでふわふわな内側の生地と甘い香りを堪能したのちにかじろう。  時折そっと硝子戸をみる。そして私は安心してパンを味わう。硝子戸に映っている顧問は私がいることも忘れているみたいに無防備だ。キャンバスを覗き込んでいるときと同じ雰囲気をまとって、カップの中を見つめていた。    ***  さて私には絵画鑑賞のほかに、二次創作執筆という隠れ趣味がある。萌えがあふれだしそうになったらすぐに携帯を取り出して一気に綴ることもしばしばだ。いや、しばしばだった。最近は遠ざかっていたのだが、その日、帰りの電車で何気なく書き始めたところやけに指がよく動き、終点まで行ってまた始発駅に戻ってまた折り返してようやく最寄りの駅で降りるまで書き続ける羽目になった。お尻が痛くなった。  バス停の列に付き、背後に注意しながら読み返す。思いつくまま書いただけあって、登場人物の立ち位置や視点が定まらず、彼らは時空の瞬間移動を繰り返しており、首なども百八十度回転していると思しき描写が散見され、始発駅を折り返して書いた辺りからはキャラ崩壊もいとわない受け責め不明の性急なエロスが展開していた。腕が相当なまったようだ。後で書き直そう。    ファイルの更新日時を見れば、半年以上、私は腐った世界を顧みなかったようだ。久々にネタが降りてきたのは顧問のせいだ。顧問は私の推しに雰囲気が似ていなくもないのだ。顧問を百倍イケメンにして、あの中途半端なヘタレ感をどうせならもっと庇護欲をかき立てるほどに増幅させて、色気と哀愁とミステリアスな影をまとわせ、肝心なところではちゃんと頼れるスパダリ感を醸しだしつつ髪を紫に染めたら、推しに少しは似ていなくもない。そこまですればもはや顧問の要素は何も残っていないが、だからこそかような妄想を繰り広げていられる。物語内の尊い関係を、私と顧問に置き換えようものならこの上なく萎える。  携帯の予測変換語彙が大変不穏な感じになった。今や私の秘密を知る唯一の証人だ。私が事件事故に巻き込まれたりして彼女が遺留品となった際に、その覚えこんでいる語彙の偏りやクラウド上の作品ファイルを暴かれて遺族ともども大恥をかいたりしないよう、細心の注意を払って生活せねばならない。  ベッドで読み返しているうちに携帯が何度か顔に落ちてきた。眠いらしい。三度目であきらめて携帯を伏せる。  その日の夜は、なにかすごく悲しい甘美な夢を見た。人肌のぬくもりを本当に感じる夢だった。頬ずりされて愛撫されて包まれながら二人で微笑んだような気がする。涙が出て目が覚め、自分の体をまさぐった。誰もいなかった。夢を反芻しかけて面影がはっきりする前に、目をつむってそれを遮り、本当の眠りにもぐり込む。
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