第一章 美術準備室

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5 バラ  姉は、高二の秋から帰らない。叔母の家に出かけて、事故にあったらしい。私は中一だった。  時がたち、会えないことが日常になってしまえば、なぜそんなに会いたかったのかもわからなくなる。  姉の生きていたころのことは時々思い出す。離れて暮らす両親や飼い犬のことと一続きになって思い出す。同じことだ。それだけだ。そばにいないだけ、会っていないだけ。会いたいねと言いながらなかなか会えない人達と同じ。  徐々に思い出が色あせて、あいまいになった部分が増えていく。  例えばそう、姉は確か、即死ではなかった。  そんなに大切なことをどうしてはっきり覚えていないのだろう。だがもう、記憶のかなたに消えてしまった事実は、自力では手繰り寄せることもできない。人の言葉で確認することはできても、信じるに足る手ごたえがない。  姉は数日間生死をさまよった。意識を失ったまま病院にいた。だが私は本当に見舞いに行ったのだろうか。「お見舞いに行った」という言葉以外の記憶がない。  叔母の葬式は断片的に思い出せる。葬式に参列するのは初めてだった。生まれて初めて貧血になったのもその時だ。線香とお経がどんどん体の奥にしみこんで支えきれなくなった。出棺の時だった。倒れ込み、超音波と赤黒い渦に身体ごと吸い込まれるかと思った。白い香りと赤黒い重力は、その後も時折思い返した。だから叔母の葬式のことはその部分に限りすぐに出てくる。  だが、姉の葬儀のことは思い出さない。思い出そうとしたこともないし、考えたところで思い出せる自信もない。  姉の思い出は、しまい込まれたまま、どんどんあいまいになっていく。それでも焦ったりしないのは、また更新できると思っているから。また帰ってきたら聞けばいいし、帰ってこないなら姉のところまで訪ねていけばいい、電話でもすればいいと、どこかで思っているからだ。  時折不意に、そうではないと自覚する。自分が迷子になっていることに気づき、呆然とする。  例えば一緒に歩いた道、見上げた空、吹きわたった風、そういったものには今でも触れてしまうことはある。だがその風がどんなに駆けて、どんなに巡っても、あの子には届かない。私が生きて、何かを見ても、あの子は見てくれない。もう決して会えない。あの人はもういないのだ。  *** 「先生って……」  今、私の周りには、中二女子たちが群がっている。騒がしく群がっておきながら言葉をためらっている。ためらっていながらにやにやしている。 「先生ってここの卒業生なんですよね?」 「いいえ」  笑いがおきる。嘘だ嘘だと口々に言う。 「なんですか。何を根拠に」 「数学の西先生が、夏目先生が生徒の時の話をしてました」 「先生の担任だったって!」  頼んでもないのに西先生の雑談を再現しはじめる。口々にやっており聞き取れないので放置した。先生が何を話したのか知らないが、断片的に聞こえてくるキーワードはどうやら私のことではない。 「人違いでしょう」 「ええー?」  たぶんあの仙人は、私と姉を勘違いしている。だがそれを説明するのも面倒なので黙っている。 「先生って何歳なんですか?」 「もう数えていません」  すると口々に私の年齢を言い当て始める。何が面白いのか。部長がうるさいから久々に部活に顔を出したが、これなら部長の小言に耐えているだけの方がましだったかもしれない。ぴよぴよ相当うるさいぞ。 「先生、無駄話はいいので。ちゃんと見てあげてください」  部長が来たと思ったら、私だけを叱ってまた向こうへ行ってしまった。高校生が文化祭のアーチ作りに必死になっている間、こちらは中学生のお世話をさせられているのだ。 「それはこの人たちに言ってくださいよ、ねえ?」  中二女子は何でも笑うが、言語は通じない。静かにしろと言うと話し出す。黙ると死んでしまう魚の一種かもしれない。不思議である。ぴいぴい言うのをさばいて、描き上げた者の絵を直し始めると、今度はそちらにみんなが寄ってくる。一人ずつ見てやるというのに、みんなで覗き込むから暑苦しいことこの上ない。 「ほら、密ですよ」  そういうと素直に一二歩下がるが、いざ手直しを始めると、またじわじわ群れて覗き込んでいる。静かに見ている分には仕方ないかと気にせずやっていると、部長が来て一人ずつ一歩下がらせた。私よりよほど教員に向いている。  漢字テストと同じ息遣いで描かれた世界に、どうやって割り込めばいい。生真面目に握られた鉛筆で、疑いもなく輪郭を取り、花茎葉だけで構成された一輪のバラ。あんなにも尖った花びらを、こうものんきに丸めて重ね合わせてしまうのは、モノをよく見るということが彼らにはまだ難しいし、もしかしたら難しいということにもまだ気が付いていないからだろう。それは難しい。モノの正しい形なんて、たぶん一生、誰にも分からない。だったらそのまま好きなように描かせてやりたい気もするが、部長に怒られるのが嫌さにありきたりな手直しをする。バラの花びらの輪郭をすこしだけ整えてやる。 「すごーい! ちゃんとバラになった!」  バラにはならない。バラに見せる手管があるだけだ。記号化するための方便だ。こうやって、子供をだまして幾星霜だ。 「先生が生徒の時、美術部って合宿ありました?」 「ありましたよ」 「先生も美術部だったんですか?」 「いや」  うっかり卒業生であることを前提に返事してしまったことに気付くが、誰も騒がない。 「何部だったんですか?」 「いや私、ここの出身じゃないから……」  中二女子たちはいやいやいやとにやにやしている。誰も私の嘘を信じてくれない。 「出身校は関係ないじゃないですか、部活を聞いているだけですよ」 「忘れました」 「隠す意味がわからない」 「逆に気になるわ」  また元のカオスに戻ってしまった。 「ていうか先生。指、めっちゃきれいっすね」 「でた指フェチ」 「でも指輪してない!」 「ほんとだ! え、独身なんですか?」  どうでもいいが、この子たちは、ほかの教師にもこんなノリなのだろうか。自分が生徒だったころ、教師にそんなに興味をもったこともウザがらみしたこともないのだが。  とりあえず限界なので帰っていいかと、目の前の中二女子にも構わず部長に声をかける。部長はちらとこちらを見たが、相変わらずの無表情で怖かった。無視された。中二女子達は、けたけた笑っている。  そのうちに中二女子たちの話題は、宿題の話になり、動画サイトの話になり、アイドルだかアニメだかの話になりしていったが、視線の中心にいるはずのバラの花は、なかなか見てもらえないようだった。明日には枯れてしまう。ようやく、一人二人が黙々と描きはじめたころに、部活動終了の鐘がなった。
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