第一章 美術準備室

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6 探偵  部活の参加者と活動時間、三密対策をまとめた日誌を顧問に提出する。どうせ書くことは毎日同じなので、最初の項目以外は以下同文でいいと顧問は言うが、記録もかねて一応きれいに書いている。来年度の部長の参考になればいいのだが、このような事態になる年はもうないだろうし本当に意味のないことをしている。そう思いながらも、余白はきちんと埋めたい性質なのだ。部員には先に帰ってもらい、一人で書き上げて準備室の顧問まで出しにいく。 「ありがとう。皆帰りましたか」 「はい」  中学生のスケッチ指導は、高校生が持ち回りで担当するが、どうしてもムラがでる。一度は顧問にきちんと習った方がいいと思ってお願いした。久々の部活指導でぐったりかと思いきや、意外と平気のようで、何事もなかったかのように窓辺の定位置に座っている。さっきまで中学生に描かせていたバラを前に置いて、スケッチしているらしい。 「先生、疲れましたか?」 「そりゃもう、疲れましたよねえ」  同意を求める視線の先にはバラがいて、もちろん答えはない。絵をのぞかせてもらうと、そこにはクリーム色の世界で何かをつぶやきながら、今にもこぼれ落ちそうなバラがいた。バラの方が疲労困憊の様子で、顧問はそれを慰めているといった感じを受ける。 「どうして、なにもかも秘密にするんですか?」 「ん?」 「いいじゃないですか、部活ぐらい。普通みんな教えてくれますよ」  自身の大学のことや学生時代のエピソードを雑談してくれる先生は多いものだ。教師というのはそういうのが語りたくて教師になるのだと思っていた。 「そんなこと聞いて何になるんですか」 「別に何にもなりはしませんけど、それが会話というものであって」 「会話する必要なくないですか? 絵を描きに来ているんでしょう」  議論はめずらしく顧問に優勢である。引きこもり理論にかけては、さすが、武装が身になじんでいる。 「会話もなしじゃ、みんなでやる意味がないでしょう。しゃべるなとさんざん注意している私が言うのも変ですけど」 「そういえば見事な部長ぶりでした」  顧問は今度はバラではなく、こちらを見て言った。耳が熱くなる。 「それより質問に答えてくださいよ」 「どんな質問でしたっけ」 「なんで先生は、そんなに秘密主義なんですか」 「私って秘密主義なんですか」  問いに問いで返すのは顧問の常套手段である。 「そうですよ」  そんなつもりはないと言いたげに首をかしげている。 「じゃあ、何部だったんですか?」 「……秘密です」 「ほら!」 「いや、そう言わせたかったんでしょう?」 「さらっと答えればそれで済むのに。なんで話してくれないんですか」 「だってエピソードとか理由とか聞かれたらこまるし」 「そこまで聞かないですよ」 「じゃあ何のために聞くの」 「興味本位でしょう」 「それなら答える義理はないですね」  面倒くさい顧問である。本気で言っているのか。からかっているのか。何か、話せない事情でもあるのか。わからない。  正直、顧問について知りたがっているのは私だ。そういった不思議な反応のわけも含めて。部活の間じゅう、アーチのことよりも中学生の方にばかり意識が向いてしまった。 「西先生に習っていたことがあるんですね」 「ああ、仙人ね……」  顧問はため息を吐いた。仮にも同僚をあだ名するとかどうなのだろう。 「何を仰ったのかよく知らないけど、完全に人違いされてます。信用しないように」 「……ですよね」  中一から聞き出した西先生の雑談内容を思い出すと、覚えず肩が震える。 「なんでも、テニス部だったとか」 「……」 「生徒会長だったんですか?」 「なわけないでしょ」 「ですよね!」  失礼だとは思いながらも大笑いしてしまった。 「あなた、引き笑い派だったんですね」  顧問は自分のことより私の笑い方が気になっているようだ。引き笑いはよくないと親にも言われるが、まあそんなに人前で笑うこともないし、修正のコツが分からないままこの年になってしまった。 「いやだって、なんでそんな、ど派手な人違いを……」 「さあねえ」  顧問は眉を下げた。西先生は、普段の平坦なご様子からは考えられないような激辛の、しかし奥からうまみが広がるような試験問題をお作りになる数学科の重鎮である。日常生活に関してはかなり偏っているとお見受けするが、浮世離れした仙人老師だから許されているところがいろいろとあるお方だ。 「ギャグのつもりだったんですかね。高二で話してくださったら、ちゃんと笑ったのに」 「笑う要素はどこにもないでしょう」  顧問の元生徒会長説。中一は受け入れ、中二は疑いを持ったらしい。それで正面切って本人に聞きに行くところが可愛いじゃないか。高校生なら笑って取り合わないだろう。人を見る目はこうして育っていくのだと可笑しくて仕方ない。私の引き笑いをよそに顧問は白けて、スケッチブックを閉じた。  私はちらと腕時計を見る。まもなく三時。今日は一つ賭けに出てみるつもりだった。 「では、そろそろ失礼します……画材屋さんに寄ろうと思うんです」 「画材屋? どこの」  場所と買い物の目的をいろいろと説明すると、顧問が身体ごとこちらを向いた。 「そういうことなら、一緒に行きますか」  欲しいところに集中した酸素の風にあおられて、私の心臓が燃え上がる。 「えっと、先生と一緒に?」  酸欠になりそうだが必死で薪をくべる。 「ちょうど私も行くつもりでしたから」 「えっ、そうなんですか」  などととぼける。自然な演技ができてしまう自分が怖い。顧問が木曜の放課後に画材屋に寄っていることは知っていたのだ。先日部員の噂で聞いて以来、木曜の午後を待ちに待っていた。 「部活で使うものなら、車で運ぶけど」 「……いいんですか?」  顧問は自分が金曜は定休日であることやら、荷物を学校に届けるのは月曜になってしまうことやら、色々と説明している。そんなのは基本情報である。 「それは全然問題ないです」 「じゃあ、もう出ますか?」  言いながら顧問は絵の具だらけの白衣を脱いだ。私はもともと帰るところだったからすぐに出られる。一緒に戸締りをしながら廊下に出た。 「学校の駐車場分かる?」 「あ、はい」 「車出しますから、その門のところで待っててください」  休日前の下校がうれしいに違いない。美術室に鍵をかけると、いつにない身軽さで指示を出して行ってしまった。白衣を着ていない顧問は、寝坊してもじゃもじゃ頭で登校した学生みたいだ。こんな人に教室の鍵を持たせていいのかと不安になる。その人物の運転する車とはいかに。お手洗いに寄りたいと告げる間もなかった。   ***  意外にもきれいに手入れされた、青のミニバン。後ろの座席は倒されており、トランクにいたるまで物でいっぱいだったので、自分の鞄を抱えて助手席に座る。顧問の荷物も預かって抱える。画材屋までの道はあっという間だった。私の緊張をよそに、顧問のハンドルさばきと横顔は非常にラフで、なかなか素敵だった。  週末は何をしているのかという、ごく普通の質問をしたが、例のごとく答えをはぐらかされる。分かったことは、木曜にここで画材を買い込んで、その足でどこかへ出かけているらしいということだけだ。  画材についてアドバイスがもらえたし、荷物も運んでもらえる。だが買い物中も一つの質問をずっとはぐらかされ続けた私は、再び車に乗り込んだときには、まだ帰りたくないという気持ちも手伝って、少々機嫌を悪くしていた。 「さてと、お家はどこでしたっけ」 「秘密です」 「またまた。Y駅でいいですか」  私の報復などまるで取り合わず、平然とギアを入れている。 「最寄り駅はどこですか」 「最寄り駅は先生と同じです」 「え、うそ」  顧問の声がちょっと高くなった。 「待って。何で私の最寄りを知ってるんですか」 「住所録で見たから」  すると一人で動揺している。生徒が非常勤講師の住所録を見るなど、嘘に決まっているではないか。冗談だと訂正しようと思っていたのだが、やめた。 「じゃあそっちまで送りましょう」  車が発進した。結局、顧問と私の距離は全く縮まらなかった。  せめて顧問の最寄りを突き止めたら今日は終わりにしようと諦めて、流れる街並みを眺める。  夕日を浴びる観音像が見えてきたときには私の不機嫌も収まり、笑いたくなった。私の最寄りとは真逆の終点に近づいている。 「先生のお宅が見たいです」 「嫌です」  バスロータリーの近くで車を歩道に寄せてくれた。 「ここで大丈夫ですか」  全然大丈夫じゃない。私はこれから多分二時間ほど旅をせねば家に帰れないのだから。 「先生、明日は何されてるんですか。誰にも言いません。私が知りたいだけです」 「ええ?」  顧問は頭をかいて、周りの車の流れを気にしている。早く降りなさいとも言えないらしい。 「田舎で絵を描いてる。それだけ」 「田舎って?」 「あなたの行きたがっていた軽井沢。叔母の遺した家が、アトリエなんです」 「へえ……そうなんだ」  ようやく謎が解けた。顧問と目が合った。今日は顧問のハシバミ色が確認できた。たったそれだけのことなのに、目が潤んでくる。 「いいなあ、これから行くんですか?」 「そうですよ」 「付いていったらだめですか?」  しっしっと追い出される。車を降りて、改めて今日の買い物のお礼を言う。さらに、明日の行先を教えてくれたお礼に、私の本当の最寄り駅を伝えてから駅へダッシュした。  クラクションが鳴った。振り返る。運転席のドアを開けて私を呼び戻そうとした顧問が、後ろの車に怒られた音だったようだ。私は笑いながらホームへ続く階段を駆けのぼった。
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