《ふたり》

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 須藤汐美が、ブランコを降りた。  俺の背後に回り、この身体を強く抱いてくる。爽やかな香水の香りは、春の日を彷彿とさせた。  しばらくこうしていたいんです、と彼女は言った。俺と手を繋いでいなかったもう片方の手はきんと冷えていた。  俺は抗わず、耳元で繰り返される呼吸の音を聞いていた。今ならまださっきの誘いに乗れるはずだ。一回寝るだけで金が手に入る。そうすればあの子の笑顔を買えるかも知れない。ひょっとしたらあの子と結ばれることだって──    いいや、違う、だめだ。あの罪は俺だけが背負わなくてはならない。ちっぽけな男のプライドが、頑なさを極め、密やかに歯噛みした。  あなたの匂い、何か知っている気がします。  そう、まるで生まれる前に知った匂いのような。  どういう意味だ、と問うと、彼女はくすくすと笑った。  あなたは私の運命の人だったんですね。私はそんなものを信じていませんで したけど、実は本当にあるのかも。でも、運命の人って、結婚相手に限ったことじゃないですよね。私の運命を変えてくれる人。それだって立派な運命の人だと思いませんか。  俺は一考し、確かにそうかも知れない、と答えた。だったら俺にとってのあの子は運命の人に違いない。須藤汐美は先ほど言っていた。朝起きたときにその人のことを想い、夜寝るときにおやすみと言いたい、と。俺は毎朝毎晩、あの子からメールをもらう。毎回決まった時間に、誰からも誤解されないような、ただの挨拶を。  それがあの子からの控えめな愛情表現であることは分かっていた。素っ気なく返してはいるが、俺はいつだって(もだ)えていた。想いを告げられない現実と、手に入れたい欲望の狭間でもがいていた。もういいよ、楽になっていいよ、と誰かに言ってほしかった。そのチャンスが、今、俺の身体をこうして包んでいる。  さりとて、俺のやせ我慢はあまりに屈強で堅牢だった。こんなにいい女が言い寄ってきているのに、心がまったく動かない。まるで彼女の巨大な空洞を前に臆しているかのようだ。  二人分の重みを載せたブランコが、小さな悲鳴を上げた。  彼女が俺の頬にキスをした。そして彼女は、そっと身体を離した。  すごく冷えてきちゃったから、そろそろ帰らないと風邪をひいちゃいますね。でも、最後に我が侭を言っていいですか。あと二本ずつ、煙草に付き合ってください。そうしたら私は満たされます。それで納得しますから。  それならば、と俺はまた飲み物を買いに行った。今度は缶コーヒーを二つ。その間に彼女がいなくなってくれることを願ったのだが、戻ってみると、彼女は最初のブランコに腰掛けて、それをキィキィと揺らし待っていた。
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