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01
「――おい。お前、智だろう?」
唐突に。通りすがりに手首を掴まれ、智はびくりとしながら立ち止まった。夏に近づいたことを教える赤い夕空が、立ち並ぶオフィスビルの窓ガラスに映る。汗ばむくらいじっとりとした空気の中、帰宅途中だった智の手を掴んだのは、かつての同僚であり智のパートナーだった男だ。もう、男と離れてから数年は経つ。親戚が営んでいるペットサロンでの仕事もすっかり板について、ようやく新しい生活を送れている。そう実感できた矢先のことだ。
「……お久しぶりです、倉並さん」
声が震える。男――倉並が智にした仕打ちのことを思えば怒っても良いのかもしれないが、もうとにかくここから逃げ出したかった。それなのに、足が動かない。うっすらかき始めていた汗が冷えて、身体が凍えそうな感覚に陥る。
「ご主人サマの手に噛みついた駄犬のクセに、随分な態度だな? Domのコマンドに逆らって正義気取りは楽しかったか? 俺が今ここでコマンドを発したら、地べたに這いつくばる卑しいSubのくせに」
十人並みな倉並の顔。その薄い唇が、嘲笑の形に歪む。ようやく掴みかけた平穏で優しい日々が、音を立てて壊れていくのでは、という恐怖。コマンドを使われてもいないのに、自然と膝が崩れ落ちていきそうな智の意識を引き留めたのは、こちらへと近づいてくる犬の吠え声だった。
「リリ! ステイ!!」
飼い主らしき男の低い声も、追って聞こえてくる。そんな飼い主に構うことなく、グングンと智たちのところまでやってきたのは、オレンジ色をした愛らしい顔立ちのポメラニアンだ。可愛い顔に似合わない、威嚇のための低い吠え声。その特徴のある声と、リリという名前を智は知っている。飼い主の顔まで思い出したところで、激しい舌打ちが聞こえた。
「躾けのなっていないSubと犬で仲良くしていろ!!」
苛立った口調でそう言い捨てると、倉並はそそくさと立ち去っていく。犬は少しの間、男が立ち去った方を向いて唸っていたが、やがてふんと荒く鼻息をついた。
「すまない。リードを調整していたら、伸ばした状態で急に走り出してしまって……怪我は」
可愛らしい暴君の飼い主は、息せきながらそう言い終えると、ようやく智を見て「青木さん?」と驚きの声を上げた。可愛らしい暴君――リリはといえば、智の近くでスンとなりながらお座りをしている。ほっとするものを感じながら、智もようやく笑みを浮かべることができた。
「リリちゃんに助けられちゃいました。夏浦さんこそ、大丈夫ですか?」
「俺はただ、リリを追いかけて一緒に走ってきただけだから。さっきの男は?」
夏浦は、智が働いているペットサロンの常連客だ。店先に置き去りにされていたリリを引き取ったのが夏浦で、そこからちょくちょく店に顔を出してくれるようになった。背が高く、精悍な顔立ちと落ち着いた雰囲気のある男だ。話してみると、外見に負けず誠実そうな人柄を感じる。アルバイトの学生たちも、彼の来店を密かに楽しみにしているほどだ。もちろん智もその一人である。そんな彼の目の前で醜態を繰り広げてしまったことに、今にも穴の中に隠れてしまいたいほどだったが、智はなんとか笑顔を作った。
「昔の……パートナーです。別れ方が良くなかったから、引きずっているみたいで。変なところをお見せしちゃいましたよね。もう、大丈夫です」
自分でも、ひどい言い訳をしているなとは思う。「そうなのか」と首を傾げた夏浦に、緊張を隠しながら笑顔で頷くと、夏浦から安堵する気配がした。彼は口数が少ないので、店先でならここで会話は終わる。しかし、智の動揺を心配してくれたのか、夏浦はめずらしく会話を続けた。
「こちらこそ恥ずかしいところを見せてしまった。リリを引き取って時間が経っているのに、まだ飼い主だとは思ってもらえていないみたいで」
いつも堂々としている夏浦からは想像のつかない一言に、智は目を瞬かせると慌てて首を左右に振る。
「リリちゃんは、信じていた飼い主さんに置き去りにされたことが深い傷になっているので……すぐ、というのは難しいのかなと思います。でも、夏浦さんの気持ちも伝わっていると思いますよ! 本当に嫌だったら、もっと行動に表れると思いますから」
そうだといいな、と夏浦が頷き返す。意志の強そうな眼差しが、智を見てきた。今までだって、挨拶と共に一言二言、言葉を交わすことはあった。普段から落ち着いていて冷静な態度を崩さない夏浦と、こんな風に話す日が来るとは。
「青木さんのことは、最初から信頼しているみたいだ」
「おれは、この子たちから信頼してもらうのが仕事みたいなものなので。もし困っていることとか、おれに手伝えることがあれば何でも言ってください。本当はおれがリリちゃんを引き取ることができたら良かったのだけど」
本当に頼んでも? と夏浦が表情を和らげた。「おれで良ければ」と返しながら、遠慮なく頼ってほしいと言い連ねる。――それから。
「あの。さっきの人との会話……聞こえてました、よね」
気にかけてくれたのに、このまま何もなかったことにするのは難しく思えて、智は気力を振り絞って夏浦に問いかけていた。なるべくいつもと同じ口調になるよう頑張ったが、どうしても声は震え、小さくなってしまう。聞かなかったことにもできたのに、夏浦が智に向けたのは真摯な眼差しで。自分から切り出したくせに智の方が戸惑っていると、「あの状況で聞こえなかった、というのは難しいな」と、夏浦は静かに返してきた。
「人通りのある中で、相手の二次性を言い捨てていくのは……青木さんの知り合いでも、さすがに」
淡々とした夏浦の声を聞きながら、さっきの倉並の――そして、過去の声が一気に蘇る。裏切ったな、と激しく智に痛罵を浴びせてきた。あの時、自分が生まれ持った二次性――Sub――に抗うことの難しさを、智は身をもって知ることにもなった。
この世の大半の人間はNormal――ただの男性と女性しかいない。だが、どちらも少数であるもののDom――支配する側と、Sub――支配される側という対極の特性があり、二次性として分類される。中学生の頃に大方の人間は検査などを通して自身の二次性を知ることとなり、智も、その一人だった。Normalだと思っていた自分がSub性だという結果を知っても、実感はしばらく湧かなかった。就職活動でも、二次性を雇用条件に入れているところは避けたし、Sub性もDom性も少数だ。もしかしたら一生、出会うことはないかもしれない。そう思っていた矢先に就職先で出会ったのが、Dom性の倉並だった。
「……さん。青木さん! 顔色が悪い。立てるか?」
ふ、と意識が戻った。無意識に座り込んでいたらしい。手の甲を必死で舐める小さな生き物の温かさと、男の気遣う声にハッとなる。急いで立ち上がろうとしたものの、足がもつれたところで力強い手が智を支えてくれた。
「すみません、お散歩の途中に――変な話をしてしまって」
「立つのは無理そうだな。悪いが、失礼する」
はい、おれのことは置いて行ってください。そう返す前に、目の前の景色が変わる。自分が抱きかかえられたことに気づき、智は目を丸くした。
「夏浦さ……」
「文句があるなら後で聞く。早く横になった方が良い。安定剤は持っているか?」
夏浦から言われて、ようやく自身がSub不安症に陥ったことに気づく。智ができたのは、頷き返すことだけだった。
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