その愛情、おかりできますか?

1/7
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 薄暗く、それなりに整理されたオフィスには、私のキーボードを叩く音だけが鳴り響く。  それでも時刻は夜の八時を回った頃くらいだから、そこまで夜遅いわけではない。  けれどとっくに、定時である五時からは三時間も過ぎているわけだから、もうこの場所には私以外、誰も居ない。  「おや、まだ残って居たんですか、愛原さん」  訂正しよう、私の上司であるこの人だけは、まだ居る。  「お疲れ様です、寺岡さんも、残業ですか?」  「えぇ、この間担当した顧客のリストを整理しなくてはいけないので、今日はもう、泊まり確定です」  「そうですか...私もです」  そう言いながら、三時間前と比べて半分くらいしか進んでいない、自分のディスプレイにも映し出されている顧客リストを見て、一つ大きなため息を吐く。  これでも上司である寺岡さんが担当している数よりは、まだまだ少ない方だ。  あともう二時間か三時間位かな...  あぁでも、そのあとに定例報告用で資料を作らなければいけないから、私も 今日は泊まりか...  そう思うと、何だか集中力が切れてきた...  しかしそんな私に、上司である寺岡さんは声を掛ける。  「愛原さん、なんだかお疲れのようですね」  そう言って寺岡さんは私を見ながら、黒縁の眼鏡の奥を、和やかな表情にさせている。  その表情を見ていると、田舎に居る父親を思い出す。  そしてそうなると、私は相手が上司だということを忘れて、愚痴に似た様な言葉で物事を言ってしまうのだ。  「寺岡さんはこの仕事って、正直どう思いますか...?」  「どうと言いますと?」  「だって...『愛情』をレンタルするなんて、未だに私はどうかと思うんです。そんなの、本来は人それぞれである筈じゃないですか...」  そう言いながら、私は私が進めている顧客リストを眺める。  この書類に書かれている人達は皆、『愛情』というモノを借りるために、ウチの会社に訪れた人達だ。  近年、『愛情』というモノが数値として可視化されるようになって、しかもそれを人から人へ移す技術が開発されて、しかもその技術はここ数年で、目覚ましい程の発展をして、ついにはこういった『愛情』のレンタル業者なんかも出来上がってしまった。  そしてそんな今の世の中、こういった業者を必要としている人達がたくさん居るのだ。   しかしそんな世の中のおかげで、私のような人間でも就職先があるわけで...  けれどそれでも、私は今でも、私のこの仕事に対して、不信感を拭えずに居るのだ。  
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!