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第一幕 柳亨雨《リュ・ヒョヌ》
訓錬院から帰途についたスリョンは、そっと溜息を吐いた。
訓錬院とは、武官採用試験や武芸の修練、兵法の講習などを担当する官庁のことだ。そこへ出入りが叶うようになったのは、確かにあの彩雲君のおかげなのだが、だからといって、それを引き換えに生涯の誓いを立てるのは筋違いというやつだろう。
想う相手がほかにいるのは本当だ。ただ、その肝心の相手は、スリョンではない女性を胸に棲まわせている。
「……スリョン!」
もう一度溜息を漏らした時、耳に馴染んだ声に呼ばれ、スリョンは顔を上げた。
「亨雨兄様」
手を振っているのは、三つ上の幼馴染み、柳亨雨だ。
端正な顔立ちが柔らかく微笑んで、手を振っている。スリョンも、自然笑い返し、彼に駆け寄った。
「どうしたの、兄様。お店まで来るなんて、久し振りね」
スリョンの言う通り、そこはスリョンの両親が営む貰冊店〔貸本屋〕の前だ。
店で何かの書物を借りたのか、ヒョヌの手には布包みが携えられている。
「今度、書堂〔子ども向けの塾〕を開くことになったのは、軽く話したろう? その教材をね」
「ああ……」
そうか、と得心はいったが、スリョンには釈然としないものがある。
「どうかしたか?」
曖昧に頷いたのに気付いたのだろう。ヒョヌが心配するように、スリョンの顔を覗き込んだ。
「ううん……ただ、本当に書堂の先生になるんだって思って」
「何だ。なっちゃいけないみたいな口振りだな」
ヒョヌの笑顔が、苦笑に変わる。
「だって……兄様、科挙は? もうすぐだよ」
本当に受けないの? という含みを持った問い掛けに、彼の苦笑は更に曇ってしまった。
「うん……そうだな」
科挙というのは、役人の選抜試験だ。
官職に就きたければ、基本的には受けなければならないし、リュ家も中流とは言え両班〔特権階級層〕だ。
ヒョヌは次男だからこそ、生活の為には科挙を受けて、何らかの官職に就いたほうが、実入りはいいだろう。
だが、陰った笑顔のまま、ヒョヌは「もう……空しいだけだからな」と呟いた。
「どんなに高い位をいただいても……あの女性が手に入らないのなら」
その目は、すでにスリョンを見ていない。彼が想う、『あの女性』に向けられている。
スリョンが、じっとヒョヌを見上げているのが分かったのか、ヒョヌは曇った微笑のまま、そっとスリョンの頭を撫でる。その直後、店から母が顔を出した。
「あら、スリョン。戻ってたのね」
「あ、母様。ただいま戻りました」
「お帰り。ちょうどよかった。これ、世子嬪〔皇太子妃〕様にお届けして。ちゃんと着替えてからね」
指摘された通り、今のスリョンは訓錬院の鍛錬から戻ったばかりで、まだ男装だった。確かに、このままで宮中へ上がるわけにはいかない。
「……はい」
母が差し出した包みをスリョンが受け取った瞬間、ヒョヌの表情が強張る。母はそれに気付かないのか、ヒョヌに会釈してすぐに店の中へ引っ込んだ。
その背を見送って、スリョンはギクシャクとヒョヌのほうを見上げる。
すると、ヒョヌはまた寂しげに微笑して、スリョンの頭をポンポンと叩いた。
「……お前が羨ましいよ。誰憚ることなく、あの方と会えるんだから」
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